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「読書」下流志向 内田 樹著

内田 樹著 「下流志向」を読んだら目から鱗が落ちた

副題は〜学ばない子どもたち 働かない若者たち〜

 

 

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち

 

 

 

「なんでこの仕事しなきゃいけないの?」

なんて簡単いったり話したりしてきたけど、

仕事とか学びというのは

わからなくてするものだということがわかった。

 

 

 

わからないことをやっていると(一生懸命に)

見えてくるものがあるのはなんども経験している

そこからいろんな方向に広がっていくことも体験した

 

だから、なんでもいいので、縁があったこととか気になったことは

一生懸命やってみる、ということだと思った。

 

昔は「仕事」も「学び」もやって当たり前だったけど

最近の考え方は消費がスタート地点にあるので

等価交換的な取引で思考して「価値や有用性」が事前に理解できない事には

合理的な判断から「しない」という判断をしましたが、

それは自分の可能性を断つことに繋がっていたのだなぁと思った。

 

若い頃の自分にいってやりたいけど、

若い時にはわかんないだろうな、

得になることしかしたくない、と思っていた。

その得になる、というのが育った環境の中での浅知恵なのだから

残念なことだと思う。

 

興味のあることにはびっくりするぐらい集中する子供がいる反面

全体的には「なんで学ばなきゃいけないの?」という子供(子供だけじゃないけど)

が多いらしい(子供と接することが少ないのでまた聞き)

そんな子供たちに教えてあげたいけど、聞かないだろうな〜

 

社会全体で働かない若者たちも増えているらしい

それは私自身も感じる、ある意味欲がないというか、お金に興味がない若者が多いように思う

 

と思ったので題名にピンときて読みました。

 

家庭内労働の消滅

 

今の子供と昔の子今の子供たちと、今から30年ぐらい前の子供たちの間の一番大きな違いは何かと言うと物心ついた頃に、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。

社会的能力のない幼児が、成長していく過程で社会的な承認を獲得するために何をしたかというと、まず家事労働したわけです。

子供が家族という最小の社会関係の中で、最初に有用なメンバーとして認められるのは、家事労働を担うことによってだった。

 

生まれて初めての社会的活動が労働ではなく消費活動だった、供の違いです。

生まれて初めての社会経験が買い物だった、ということになっているわけです。

 

この最初の経験の違いは、かなり決定的だと思います。

消費することから社会的活動をスタートさせた子供は、

その人生の初期において「金の全能性」の経験をしていまう。

 

「ぼくは書い手である」と名乗りさえすれば、

どんな子供でもマーケットに一人前のプレーヤーとして参入が許される、

その経験のもたらす痺れるような快感が重要なのです。

 

学校でも子供たちは「教育サービスの買い手」というポジションを

無意識のうちに先取しようとします。

彼らはまるでオークションに参加した金満家たちのように、

ふところ手をして、教壇の教師をながめます。

「ひらがなを習うことに、どんな意味があるんですか?」

という言葉になるわけです。

 

子供達が成熟の最初の段階で、まずおのれを「消費主体」として立ち上げるということは歴史上初めてのことです。

それは単に生活が豊かになったとか、物質的欲望が進んだということではなく、

それ以前の問題として、

子どもたちが「時間」と「変化」について自らを閉ざすように、

幼くして自己形成を完了させてしまったということです。

 

学びというのは

自分が何を学んでいるのかを知らずに

それが何の価値や意味や有用性を持つものであるかも言えないところから

始まるものなのです。

 

自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないというその事実こそが学びを動機づけているのです。

例えば母語の習得です。

母語を学ぶ時にはこれから何を学ぶのかは知らなかった、最も原始的な学び。

 

子供がまず学ぶべきは「変化する仕方」です。

学びのプロセスで開発するべきは

「外界の変化に即応して自らを変えられる能力」です。

それを逆にすると「無知」の定義も得られます。

無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを

勘定に入れることができない志向のことです。

 

学びからの逃走、労働からの逃走とは、

おのれの無知に固着する欲望であるということです。

                 

わからないから学ぶ、学んでいくうちに見えてくるものがある、

それは学ぶ前には到底想像できないものである。

そのための学びで子供たちには学ぶ権利があるし、

それは幸せなことである、まず第一に学びを整えるのが大人の仕事。

 

しかし、今学校で子供たちにとって学びは義務のように感じているようだ、

学びは幼い時に与えられているありがたい権利であるにも関わらず・・・

 

 

子供の成長が待てない親

 

今の若いお母さんって育児をロングスパンで考えることができない、

すごく短いスパンで考えている。

それは育児をビジネスの用語で考えている、

自分の子供は自分が作り出した「製品」であり、

親の「成果」は「製品」にどんな付加価値をつけたかによって

査定されると考えている。

その成果が評価されると、親は育児の「成功」という形で

社会的な自己実現を果たした、と考える。

 

消費主体で育った人が親になると、

こういう考え方に無意識的になってしまうのだろうか。

 

 

読書感想文のつもりで書いているけど、

そうなってないような、

新聞の書評欄を書く人はすごい。

引用多数です。

 

 

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