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「農業女性の戦後史」姉歯 暁著を読んで

日本農業新聞の投稿欄「女の階段」への投稿手記集から

当時の農家での嫁(女性)の生き方が読み取れます。

 

 投稿手記を転載、本文から抜粋そして引用して

個人の独断と偏見と浅慮で感想(赤字)を記しています。

 

今していることの結果が何十年後に現れるとしたら、

いま出来ているシステムは何十年前に起因しているのではないか。、

 と考えたからです。

 

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農家女性の戦後史

農家女性の戦後史

 

目次

・著者紹介

姉歯 暁(あねはあき)女性 

現在、駒澤大学経済学部教授

経済理論と経済学の解析手法を用いて

消費、くらし、女性問題を分析する。

農業生産と食料問題、農村女性の歴史的分析に詳しい。

 

はじめに

「日本農業新聞」のくらし面に投稿欄「女の階段」が登場したのは1967年だった。

「女の階段」投稿手記から農村の内側から見たリアルな女性史を読み解き、

農家女性たちが「なぜ?」問うてきた数々の「不条理」を探ることが

本書の目的である。

 

終戦と「家」の廃止

1941年日本は敗戦を迎えた。

日本国憲法と改正民法によって

「家」制度の廃止と「男女平等」が宣言された。

 

 

日本に長く続いた家長制度は、戦後民主主義の中で音を立てて崩れていった。

その中で農村では相変わらず家族制度の形が保たれたまま進行していった。

封建時代を背負った義父母と、戦後の新しい教育を受けて育っていく我が子たちのとの間で板ばさみとなって私は幾度かつまずき、苦しみ、悩み、暗中模索の日々であった。

 

法律が改定されても現実の生活では依然「家」制度はそのまま引き継がれていた。

 

 

農家女性 ①どんな立場なのか

農家の嫁は、後継者を産み生業を支える大事な「働き手」であると同時に、

「血筋」からは外れる存在であった。

その意味で、嫁は「家族」ではない。

 

従って、嫁は他所からやってきて一族の稼ぎを消費する存在(穀潰し)である。

家制度の強固なつながりからすれば、実際の「家族」は血族のみであり、

本人たちも意識しないほど深層に刻まれているものは「純血主義」である。

 

経営権に関する全ての制度については「男系中心」におかれ、出産・育児については「母系中心」におかれる。

従って、嫁から生まれた子供は息子の血を受け継ぐものであり、

子供の所属は「家」にあるが子供の「血筋」を意識するとき、

不思議なことにそれは「母系」を中心に捉えられるのである。

 

すなわち、嫁の子供は嫁という他人を通じて嫁の「血筋」を引き続き存在であり、

自分たちの「血筋」を引きつづものは「嫁に行った娘」の子供なのである。

 

ポイント!嫁は他人、嫁に行った娘は身内

 

 

 

農家女性 ②どんな扱いを受けたのか

匿名希望 31歳

 

私は農家へ嫁いで9年になります。

農業を全く知らずに嫁いだので、仕事と家に慣れるまでどんなに苦しく、

悲しい道のりを歩んできたのか、農家の嫁以外の人には想像もつかないでしょう。

 

まず、想像以上に畑仕事はハードでした。

初仕事は土作り、堆肥集めに養鶏場に通い臭気にまみれて、

トラックへ積み畑に撒きました。それを見て姑は喜んで夫は見て見ぬ振り

 

私の場合、他の若嫁のように手加減や甘やかしはなく、なんでも覚えるようにと、

夫や養父からもビシビシと仕事を仕込まれました。家によって違いがある、優しい家、ケチな家、掃除に厳しい家、嫁を大事にする家、家、家

 

白紙の私は早く仕事を覚えねばと、無我夢中で働きました。

野菜の二毛作で出荷時期は毎朝4時から畑へ出ます。

この時期は高度成長期の真っ只中であり、一生懸命したことが結果につながる環境にいたのならば、違っていたのではないか、環境によって運命が変わるということがよくわかる事例

 

子供も私の腕の中にあったのは7ヶ月まででした。

「若い者が畑に出るのが当たり前」と姑に宣言されて幼子を預けて働きました。

育児もできず、母親としての存在価値はオムツを洗うくらいなことでした。

泣くと「子供の抱き方も知らない」と取り上げられました。

 

以来私の心は深く傷つき、どうしても第2子を産む気になれませんでした。妊娠すると仕事ができなくなるからという理由で一人の男の子しか産めなかった人を知っている

また畑で疲れて帰ってきても、顔さえ見れば、家事に不慣れな嫁が歯がゆいのだろう、姑がやることなすこと注意をするのです。

ますますいじけた暗い嫁になっていきました。

 

「親類中で最低の嫁だ」と罵られ

「出て行け!」と幾度も怒鳴られて、どれほど眠れずに布団の中で泣いただろうか。

旦那はどうしていた!旦那の存在感が皆無、旦那は親の言うなりで親が怒鳴ると後ろで震えているの?それでも夜は喜んでお相手せねばならないの?

 

 ”赤字は筆者感想”

 

 

 

農家女性 ③なぜ不条理に耐えたのか 

 嫁が体を壊せば実家から医療費を出させるよう義父母から命じられるか、

もしくは実家に戻される。

「欠陥品を売りつけた側に責任がある」と義父母に言われた嫁もいる。

 

姑の命令で堕胎を余儀なくされ、病院から自転車で帰宅した直後に

畑に出ろと言われた嫁もいる。

 

この生活環境から逃げ出そうとしても、それは許されない。

何故ならば、無償労働で蓄えはなく、財産を持たない女性たちには

この「家」にすがりつく以外に生きる術がないからである。

 

ここにいる嫁の姿は単にタダ働きの労働者というより、全人格が支配される奴隷制社会における奴隷の姿に近い。

ここから逃げようとすれば、嫁はいきなり生活基盤たる財産も職も、

住まいもそして子供さえ失うことになりかねない。

 

職住が分離していない農家の嫁たちにとって、

職を失うことは住居を失うことであり、生活全てを失うことでもある。

また、地域共同体としての機構が厳然と残る農村で突出した行動を取ることは、

そこでの関係性も断ち切られることにもなりかねないのである。

 

男の意識改革

男性の意識改革

後藤ミン 56歳(福島県福島市)

 

アメリカに40年も住み続けている兄家族がいます。

先日、めい夫婦が来日した時、こちらの私たち兄弟縁者が集まって歓迎会をしました。

私を始め女性たちはご馳走を作ったり、接待のために台所と会場を忙しく行き来し、

一方、男性たちは腰を据えて酒を酌み交わして歓談していました。

 

詰まったら旅に出よう!ひとり旅やってみよう、世界が変わる。

この時にめいの夫(アメリカ人)が

「oh、日本女性は奴隷なのか」

と非常に驚きの様子で質問したのです。

 

この質問に私は本当に胸を突かれました。

しかし、農村では残念ながらこのような光景はごく当たり前になっています。

私たち農村婦人は男性と同等、またはそれ以上に仕事にも打ち込んでいます。

 

さらに育児や衣食住のどれも婦人の肩に重くのし掛かるものばかりです。

家族の健康一つ考えても、野菜を作ること、調理、加工など暇なく小走りに動いているのが実情です。

 

夫はと言えば食前後だけでも私の数倍も新聞などに目を通しています。

身近にいる夫だけでもなんとか人間同士の博愛の意識を呼び起こして欲しいと

諸々の働きかけをするのですが、いまだに実りません。

 

家族みんなで家事も済まして自由時間を通れたら、もっともっと新聞も本も読み心を潤わせ、胸を膨らませ、生きることがかっきに満ちるようになるでしょう。

農村女性の意識改革は男性の意識改革をどう進めるかとの

難題をはらんでいると思います。

 

農家の嫁、最後は介護が待っている

 

杉崎スミ 71歳(神奈川県小田原市)

 

夫の母を15年間在宅介護で看取りました時、夫は

「よく面倒見てくれた、今度はおれの番だなぁ」と

何気なく言っていましたが、よもやこんなに介護の火が続くとは、

思っても見ませんでした。

 

夫は一昨年はペースメーカーを入れるため、

去年は足の骨折のため、約2ヶ月の入院で付き添い、

今年はまた骨折で11月から入院生活。今年中の退院は不可能。

 

痴呆が始まってから4年半、

何と私の介護生活は20年も続くのです。

そして、これからも何年続くのか

「私の人生は何なのだろう」と考えてしまいます。

 

 

報われない介護 

 

小杉好子 77歳(栃木県益子町)

 

70歳になる嫁の立場の好子さんが、96歳の姑さんの介護をしています。

好子さんは糖尿病と戦いながらの生活、姑は足が悪く部屋の中での生活で、

本を読んだり新聞を見たり日記を毎日書くなど、頭はしっかりしています。

 

好子さんは「おれが先に死じまうよ、食べ物はいくらでも食べるし」

と友人に愚痴をこぼしていたとのこと。

「介護保険制度があるのだから利用した方がいいよ」と言うと

「世間体が悪いし、親をみないと言われるのが嫌だ」とのこと・・・。

 

姑さんはボケていないから、毎日世話になっていることが苦しかったのでしょう。

自殺してしまったとこのと。

 

好子さんの心は、

こんなに世話したのにと腹立たしく、姑を恨み

葬式にも出ず、部屋の中に閉じこもり、人に会うのも嫌と言います。

 

家族の心配は大変な様子でした。

嫁さんも姑さんもほんとうにに悲しくかわいそうです。

介護はみんなでするもの、老人施設などを利用して、

二度とこんな悲しい出来事がないようにしたいものです。

 

「親をみない」とか「世間体が悪い」などと言うことを考えないで、自分自身が幸せでないと、人に優しくなれないから、自分を大事にして欲しい。

「世間の人も親を見ない」などの言葉を慎みたい。

 

農家の嫁、相続はかやの外 

「長男の嫁」だからとさんざん介護を押し付けられた挙句、

相続の席には同席できない。

 

夫を亡くしてから10年間、汚物まみれになりながら

舅を介護してきたにも関わらず

「30年以上住み続けた家屋敷の新しい登記簿謄本」

に名前が記されることもなく、田畑も山林も全て分割されてしまった

女性の口からは、慈愛の言葉など出てくるはずもない。

 

舅より先に夫を亡くした嫁の立場

 

澄子(60)仮名

 

舅がなくなり相続になった。

謄本には夫の弟二人と妹の名、それに自分の長男の名前が並んでいた。

「あなたの長男も共同名義人なのだからいいじゃないか」

義弟たちの言いぐさが聞こえるようだった。

田畑、山林はバラバラに分けられた。

 

舅を介護して10年、夫はその途中で病没した。

舅の遺産相続問題で、終始一貫、本家の嫁である澄子は”かやの外”

怒る気にもなれなかった。

義弟も義妹も目と鼻の先に住んでいる。

これから先の付き合いを考えるともめたくなかった。

 

 

昭和56年、75歳になった舅が床に着いた。

泌尿器系の病気で、動くのをおっくうがるようになった。

失禁が始まり寝込みがちになった。

 

玄関脇の日当たりの良い部屋に舅のベッドをおいた。

舅の就寝時間は夜9時、それ以降は物音ひとつ立てるのも気が引けた。

 

朝昼晩、家族の食事の前に舅に食べさせた。

夫は「じいちゃんがうらやましがるといけない」と、

晩酌のビールを台所の隅であおった。

優しい人だった。

優しい人、というよりも親にすごく気を遣う、というか親には逆らえないのでは

 

朝ごはんの後始末が終わると、舅の体を拭いて自宅の下の小さなため池で、

オムツをすすぐのが澄子の日課だった。

冬は薄氷をコツコツ割って洗った。

ゴム手袋はうっとうしいからと、いつも素手で洗った。

 

頭のしっかりしている舅は、用が済むと「汚れとる」と澄子を呼んだ。

紙おむつを使えば月に2万も3万もかかる。

つましい生活になれた澄子にとっては、自分の体が動くうちはと、

当然のように自宅介護を続けた。

 

ある雪の日、ため池の土手はひどくぬかるんでいた。

いつものようにオムツをすすいでいる最中に、足が滑った。

頭から池に突っ込んだ。

寒いより冷たいより、汚物まみれになった自分が惨めだった。

 

舅の介護の最中、昭和59年、夫が癌で倒れた。

手術で持ち直したものの、61年に帰らぬ人となった。

57歳だった。

 

(「窓を開けて」第1部、「ルポ相続」3、「日本農業新聞」掲載。「女の階段」手記集第8集、211頁より重引)

 

まとめ

 

 農家のルーツを知ることは日本人のルーツを知ること。

少子化も高齢化も単身世帯も、

今ある日本社会の宿痾(シュクア、長く治らない病、持病の意)

の根本原因がここにある、と言うのは極論でしょうか?

 

 

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