昔の結婚生活を伝えたくて…
2000年に「高知女性の会」のメンバーが、
「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから
了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して
聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。
結婚
祥子さんは昭和元年A村で生まれた。
祥子さんは実の母親の顔を覚えていない。
幼い時に母親は亡くなっていた。
祥子さんも姉たちと同様父親を助けるため、他県のみかんづくり農家に奉公に出た。
祥子さんによると「貧しい家庭に生まれた。父をちょっとでもたすけちゃらないかん、の言葉が頭にこびりついちょりました」と言う。
「姉も順々に父を助けたりして、嫁いでいきました」というように、
祥子さんも昭和24年、24歳で農家の長男と結婚した。
結婚したときは義父母と夫と祥子さん、そして義妹の5人家族だった。
祥子さんの婚家は同じA村でも急斜面地で、鍬の打ち方から違った。
「土を落としたらいかん、鎌先を上向けて打たんといかん」と言われ、
ここでは山を背にして下から上に土を放り上げるように耕さねばならなかった。
出産
祥子さんは3人の女の子を出産した。
しかし、次女は先天性心臓弁膜症のため1年足らずで亡くなった。
出産は昭和30年の長女の時は産婆さんに自宅へ来てもらった。
37年の長女の時は、助産院での出産は面倒がないという話を聞き、
陣痛が始まってから一人でバスに乗って産婆さんのいるC市まで行き、
無事出産した、
その時、夫は出稼ぎ中だった。
古い浴衣をほどいておむつを作った。
新しい布では赤ちゃんの肌に固く、使い慣れた布がよいからだ。
生活
出産後1週間で働いた。
ゆっくり休んでいられなかったこともあるが、
祥子さん自身、出産後は体が軽くなって、かえって調子がいいと思ったからだ。
1週間目から「だいがら」という足でつく精米機で米や麦を搗いていた。
竈で火をおこし、水は谷から引いた。
今ならホースで水を引くが、当時は竹の樋(とい)を通てくるので、落ち葉がつまり水がうまく流れないこともあった。
洗濯機を買ったのは今から25~6年くらい前のことで、それまではたらいで洗っていた。
介護
義母は関節リューマチであった。
祥子さんが結婚したときには、足を引きずりながらも杖をついて歩くことがきでた。
義母は平成年に91歳でなくなったので、祥子さんは41年間介護したことになる。
結婚する前は、義母の状態についてあまり知らなかった。
義母の状態が分かったときでも、困ったという気は全くなく、
義母を「大事にしてあげないかん」という気持ちだった。
祥子さんがここへ来るまでにも、また、長い介護の間にも、
義母は高知の病院に何度か入院し、高知の接骨院に通院もしていたことがある。
接骨院に通院するときは、義弟の家から通院していた。
接骨院への通院や病院に入院したときには、A村からは遠いので、独身の義妹が義母について高知に行き、世話をした。
その後、義妹は高知で紡績会社に勤め始めた。
義妹は会社が休みの時には村にも帰省し、義母の世話をしてくれた。
義母の最後2年間を看たのは祥子さんとこの義妹である。
義母は頭はしっかりしていた。
野球が好きで、中でも高校野球が大好きだった。
野球が放映される時間になると不自由な身体で、自分でテレビのチャンネルを回した。
出産、育児と介護が重なった時期もあったが、
「自分の子供は、そこそこにして、どうでもえいと思うた」と言うように、
義母の介護を最優先にした。
在宅の入浴サービスが始まっても、義母が嫌がったのでサービスを受けず、
いつもお湯で義母の身体を拭いた。
祥子さんの記憶によると、一度だけ義母を背負って風呂に入った。
しかし五右衛門風呂では祥子さんが背負って入浴介助することは、なかなかできなかった。
義母は「おしっこにいきたいから」と祥子さんを呼び、女性用尿瓶や大便用の便器を使用した。
亡くなる7~8年前から夜だけ紙おむつを使用した。
いつ起こされるかわからないから、夜は寝間着など着たことがない。
だが起こされた時は眠かった。
「つらかったことがないというたら嘘になります」と語る。
「祥子さんがゆっくり食べてからでえいで」
「仕事しゆう人間こそ早う食べや」
「私は後からでかまんよ」
「なんちゃあしやせんきお腹もすかん」
と義母は祥子さんを気遣ってくれた。
しかし、夕食は必ず義母を先に食べさせた。
義母は野菜の煮物などはよく食べたが、昔から魚は苦手だった。
食事の介助についても、自分で食べるのなら好きなように食べられるが、
介助される者にとって、食べるタイミングや、食べ物の大きさや量が適当かどうか、
食べにくくないだろうかなど、常に考えていた。
食べさせる方の都合のよいようにしか、食べさせてなかったのではないかと、
今でも思い出すことがある。
義母はリューマチだったので、衣服の脱ぎ気のために、体が硬くなったところを動かす具合がわからなかった。
着物は袖が大きいので脱ぎ着が楽だが、洋服は難しい。
洋服の脇の下を全部ホックに作り直したり、前開きのワンピースを作ったりした。
いまでもその頃使っていたミシンが置いてある。
介護の終わりの頃には、既製品の浴衣を着せるようになった。
また、義母は自分で寝返りなどもできなかった。
義母に床ずれがないことをみんなが不思議がった。
それは祥子さんなりの工夫で、マットの座布団を何十枚も購入して、義母の腰などに当てていたのだった。
義母は「ズイズイする」といって、毎晩サロンパスをよく貼っていたように思う。
嫁いできたばかりの時は、実家が恋しいこともあった。
義妹が休みでA村に帰ってくると、子供を連れて実家に泊まることもあった。
しかし、年月を重ねるにつれて、実家に行っても義母のことが気がかりで、帰った方がむしろ落ち着くようになった。
義母の施設入所を勧める人もいたが、体が不自由な高齢者が、
老人介護施設などへ入所して一から十まで他人に世話されるのも嫌だろうと、
家族は誰も入所のことを考えなかった。
41年間の介護が終わって、他人は「肩の荷がおりたね」と言ったが
なかなかそんな気持ちにはなれなかった。
「おばあさんの後を背負うていかないかんから(義母が亡くなって自分がこの家を守っていくということの意)、一生懸命頑張らなあいかんと思ったら、自分の身体がガックときたので年かなと情けなくなりました」と言う。
祥子さん自身は今70歳を過ぎている。
将来、介護される側になったら、できれば自宅で過ごしたいと思っている。
しかし「子供には子供の生活があるし、仕事はあるし、やむを得ん場合もあるかな」
と言う。
この村の若い者はそれぞれ仕事に出ており、昔のように米やみかんづくり農業を生業にしているのは、高齢者だけになっている。
支え
長い介護生活を精神的に支えてくれたのは、3歳違いの実の姉である。
姉は今、高知市にすんでいるが、祥子さんが介護をしていた時期にはA村にいたこともある。同じ村であったので、姉の家に行くことができた。
姉の家に行っても愚痴をこぼすわけではなかった。
しかし、姉は「何ちゃー一言も家庭のことも言わん、おばあさんの世話も大変じゃにお婆さんのことも言わんねえ」
「神様だけはお見通しだから、頑張らなあいかんぞね」と言って、
何も言わない祥子さんの状況や心中をよく理解し、祥子さんを励ました。
いまでも「無理せられんぜ」と、度々電話をかけてきてくれる。
姉は短歌が好きで、祥子さんが模範嫁の表彰を受けた時も、短歌を作った。
【模範嫁】祥子さん41年義母を介護~②へつづく