ちょっと前の介護「模範嫁を訪ねて」・・・暮らしの様子など
今では考えられない話が満載です。
その当時の高知県のお嫁さんの生活の様子、出産、一日の暮らし方などです。
(2000年に聞き取り調査をした時点での話)
・結婚当初からガスがあったのは2名のみで、そのほかの家庭は竈(かまど)に薪で煮炊きをしていた。
・ガスになるまでの期間は、約5年以下が3名、約10年が2名、少なくとも10年以上が2名、33年以上が1名、不明1名である。
竈などに使う薪を切るのも仕事だった人もいた(男の人がする仕事なのだけど)。
・結婚当初から水道だったのは1名だけで、山や谷からパイプや竹の樋(とい)で水を引いていたのが5名、田圃から竹の樋で引いたのが1名いた。近所の井戸から釣瓶(つるべ)で汲み上げ、天秤棒で家まで運んでいたのが5名《その中で、風呂用の水を近くの川まで汲みに行っていたのが2名、また洗い物には池から家の中に水を引いていたのが1名》いた。
井戸や川から水を運ぶという作業は、とてもつらいものだった。
約10リットル入るバケツを2つ付けた天秤棒を担いで運ぶ。
家から井戸まで約20メートルの距離がある人、家から井戸まで往復で約5分かかる人や約200メートルの人もいた。
風呂用の場合、それを何度も往復しなければならない。
これを女の力で毎日一人でやった。
・水道化した時期を覚えていない人もいるが、昭和30年頃が1名、昭和40年頃が2名であった。
水道になるまえまでの期間が結婚してから10年~13年以上あったという人が3名いた。
また現在も谷から引く水を利用する人や、山の中腹へボーリングしてその水を利用する人がいる。
・洗濯は結婚当初から洗濯機があったのは2名で、ほとんどが手洗いである。
家でたらいで洗濯が6名、川や洗い場で洗濯が2名、家で洗ってすすぎを川でするのが2名で、洗濯機購入までの期間は3~7年が2名、約10年が2名、約25年~30年が3名、不明3名である。
当時ゴムてぶくろはなく、ほとんどの人が洗濯などの水仕事を素手でしていた。
冬はみんな、しもやけやあかぎれなどで指は深く割れ、血が出て、ひどくあれていた。
そんな状態でも、日に何度も洗濯をしなければならない人もいた。
・家事の電化(洗濯機や炊飯器)の時期を見ると、苦労が減るようにと、値段が高くても出始めに購入するところもあれば、嫁がいるのだから必要ないと、なかなか購入しなかったところもあった。《この差でその後の家が良く成ったり悪く成ったりするのに関係していると私見では思う》
出産
産前の仕事(稼業・家事・介護)状況としては、陣痛が来るまで通常どうり働いた人、またできる範囲で働いた人、重いものは夫が運んでくれる人がいた。
この産前の仕事がたたってか、流産を経験した人、出産後子供が病気になった人もいる。
出産方法は「すべての子供を自宅で家族による」が2名、「自宅で初産だけ助産婦さんによる」が3名、「自宅で初産だけ助産婦さんに、2回目以降は病院で医師による」が1名、「自宅で出産」が1名、「全ての子供を助産院か病院で」が2名。
つまり、ほとんどの場合が自宅出産だった。
産後の休養は、約1カ月が2名、20日が1名、10日が3名、約1週間が4名、約3日が1名だった。
産後の肥立ちが悪い時は、入院したり実家に戻ったりしたが、婚家に戻って来たその日から立ち働いた。
産休明けの仕事(稼業・家事・介護)は、通常どおりに仕事をした人がほとんどで、きつい仕事はしなくてもよかった、という人は1名だけである。
中には子供を背負って仕事をした人もいた。
1日の暮らし
・稼業が農家の人は朝およそ4時~5時半、他の稼業の人も3時ごろや5時~6時には起床した。それから朝食やお弁当を作り、介護や家事、洗濯をすませて仕事に出た。
・昼間は仕事のみか介護のみ、介護をしながらの仕事。被介護者の痴呆やおむつのために、1日何度となく掃除や洗濯が必要だった人もいた。
・みんなと一緒に仕事をして、帰宅後は夕食作り、風呂焚き、風呂や炊事の水汲み。その後も夜遅くまで家の中で農作業や仕事をする人、洗濯をする人、被介護者のおむつ換えのために深夜1時ごろまで起きていた人、夜中に被介護者に何度も起こされた人など、睡眠時間が少なかった人がほとんどである。
・そんな生活の中で、嬉しかったこととして語ってくれたのは「介護サービスを利用したときには楽だった」「昼間ヘルパーがきて老人の相手をしてくれるのが助かった」という介護サービスの利用に関することや、「被介護者が自分に優しくなり、ありがとう、と言ってくれるようになった」という被介護者との関係であつ。
・つらかったこととして共通しているのは、思い被介護者を1人で抱えたり、痴呆や下の世話、介護に関しては休みもなく手も抜けないところに、寝不足や女手でも重い荷物や水を運ぶ日常の家事や稼業がつづいていたことなどである。
・それぞれが語ってくれたこととして、義兄弟の無理解(何の手伝いもしてくれずに口出しばかりしてくる、義姉さん、すまんねぇ、の言葉もなく信用されてないと感じた、など)
・被介護者との関係では、被介護者にひどく怒られたり叩かれたりしたことや、
被介護者が「痛い、痛い、」としきりに言うが自分にはさすってあげることぐらいしかできなかった、
一生懸命介護しているのに被介護者が「死にたい、生きている甲斐がない」といったこと、
被介護者の我儘に耐えかねて一度実家に帰り、しかし自分には責任があると戻ってくると「戻ってこんでもええ」と言われた時の何とも言えない寂しさ
・つらかったこといろいろ
夫は飲みさかっちゅうし義父は自棄を言うし、そんな時はつらかった。
1人で家事・子守り・介護をしなければならなかったこと。
いたわりがなく仕事にとても厳しい家族。
授乳や介護をしている最中に「仕事の手順がある」と夫に怒鳴られた時の情けなさ。
介護を手伝いに来てくれた娘が帰る時のあまりの悲しさ。
義弟の家族などが風呂に入りに来て、最後に自分が入る時には汚れた湯がわずかに残っているだけだった時の情けなさ。
辛いことがあっても、口に出せないつらさ。
このまま一生こんなもんかな、と思う切なさ。
きりがないほどの思いを語ってくれた模範嫁の人たち、
「特別たまらないということはない」と言ったのは一人だけだった。
次回は介護の実態として、被介護者の介護の期間、病名、どんな工夫をしてどんなものを食べさせたのか、ということと、夫の手伝いについて書きます。
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