Chico style

a day in my life

【模範嫁を訪ねて】昭和18年20歳で結婚したはな子さん、17年間寝た切りの義母を介護

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 

はな子さん

 

出会い・結婚

はな子さんは大正12年4月A市に生まれた。

実家は本当に小さい小作農家だった。

貧乏で生活はいつも苦しかった。

結婚する前は農作業の手伝いもしたし、子守奉公にも言った。

そして、義母の里が紙すきをしており、そこの手伝いをしていたはな子さんは

その働きぶりから見込まれてお嫁に行くことになった。

 

昭和18年、はな子さん20歳の時に結婚した。

夫は22歳で当時の国鉄に勤めていた。

日本中が戦争、戦争で駆り立てられていく時期だった。

贅沢は敵だと言われ、化粧やパーマをするのは非国民だと許されず、きれいな着物さえきられなかったし、物もなかった。

 

時代が時代だけに結婚の祝いは質素なものだった。

結婚の日、乗合バスで婚家へ行った。

両親は来ず姉が一人ついてきてくれた。

裾の長いよそ行きの着物の中で一番いいものを着た。

 

婚礼の翌日から立ち働いた。

夫は結婚してまもなく広島など方々へ出張していた。

甘い新婚生活ということはなかった。

二人だけでゆっくり語り合うこともない。

 

家族

夫は6人兄弟の長男で、結婚当初から夫の弟妹も両親も同居だった。

当時の義弟妹の年齢は、はっきりとは覚えていないがすぐ下が18〜9歳、

間に3人挟んで末の弟は3歳だった。

はな子さん夫婦との年齢差は4〜5歳で兄弟のように育った。

義母と一緒に夫の弟妹も育てたような感じである。

 

義母もまだ38〜9、義父は義母の5歳違いで43〜4歳ぐらいだったように思う。

当時義父は木を切るなどと行った山仕事の日雇い労働をしていた。

義父ははな子さんのことを「ねえよ、ねえよ、」と呼んでいたが、

義母は名前で呼んでくれた。

やはり名前で呼ばれるほうが嬉しかった。

 

出産と戦争

昭和19年に長男が生まれた。

生まれて1ヶ月ほどで夫は兵隊にいった。

3年ほど沖縄に行っていた。

その間は食糧難だったため、はな子さんは芋を作り、働きにも行った。

敗戦前の大変な時期で自分の服も子供に着せる服もなく、オムツもボロボロになっても使っていた。

 

長男は夕方になると泣き始め、食べ物がない時代で母乳もたくさんは出ず、100日目ぐらいからお粥を食べさせたりしていた。

夫は兵隊に取られて家にいなかった。

オムツがない、着せる物が無い、おまけに食べるものもない。

誰もが自分のことだけで精一杯で、助けてくれる人もいなかった。

あんな大変な思いはもう2度といやだ。

戦争と言ったら身震いがする。

 

はな子さんのすぐ下の弟も戦争に行った。

また次の弟は特攻隊に入ったが、終戦間際だったため難を逃れた。

そして終戦。みんな無事に帰ってきた。もちろん夫も。

不幸中の幸いだった。

 

昭和22年に長女を出産した。

陣痛がくるまで通常どおり働き、長男も長女も助産婦をしていた義祖母が自宅で取り上げた。

産後は10日ほど休み、約1ヶ月間は重いものなどは義母や夫が運んでくれた。

子供の風呂ははな子さんか義母が入れた。

夫は時々オムツを洗うと行ったこともしてくれた。

 

夫の結核と子供の学校

結婚前の徴兵検査の時から、夫は少し肺に影があるといわれたいた。

しかし戦争も終盤に近ずいていた昭和19年、夫は召集されていった。

その時に義母が方々の病院へ連れていって診てもらったそうだが

「それは治った後、固まっちゅうがよ、大丈夫」といわれたそうだ。

 

兵役から戻った後の昭和26年に、夫の結核が再発して入院することになった。

費用は国鉄が見てくれ、3年ほど入院していた。

その間も国鉄が基本給ほどの現金を支給してくれたため随分助かった。

とはいえ、それだけで一家を養っていくことはできない。

 

そのうち子供たちの学費も必要になってくる。

当時はすでに田を作っていなかったため、働いて食べるより他に仕方がなく、

そうなるとはな子さんが働くしかなかった。

B会社に仕事があったのでそこで働いたり、いろんな所で働いたりしたものだった。

義父も少し働いていた。

 

子供に関しては特に心配なことはなかった。

長男には高校に行かせてあげることはできなかったが、

彼は自分で夜間の学校に通った。

3つ下の長女は長男が

「高校ぐらいは出ちょらないかん、ちょっとみちゃうき」と言って

少しずつお金を出してくれて高校を出た。

 

その頃になると、義兄弟のほとんどは育って家を出ていた。

当時義母は末の義弟を大学にいかせて教師にするために働いていた。

義弟が教師になったら自分が義弟に付いて行こうと考えていたらしいが、

結局、彼が大学を卒業する前に義母は倒れてしまった。

 

義母の介護

それは、戦中戦後の大変な時期に子育てで苦労しやっと子供も大きくなって、という

時だった。

昭和36年8月はな子さんが38歳の時、義母は中風で倒れた。57歳ぐらいだった。

倒れて1週間か10日ぐらい意識がなかったため、病院へ入れてもらおうとしたが、

受け入れてくれなかった。

 

そうなると家で看ざるを得ない。

その当時A市の医者が往診に来てくれ、鼻からチューブで流動食を注入してくれた。

それがなければ1週間や10日も何も食べずに助かることはなかっただろう。

しかし、それからが大変だった。

 

全然言葉がわからない。

義母が伝えようとすることを全く理解できず、どういう要求をしているかがわからない。それには一番苦労した。

義母はもどかしく思うし、はな子さんは当惑する。

それは難儀なことだった。

 

そして左手足の麻痺。

今だったらリハビリで少しは座ることができるくらいにはなれたろう。

しかし、当時は動かしてはいけないといわれていた。

そして本当に義母の体は固まってしまい、自分で動くことができなくなった。

床ずれができるため、動かして姿勢を変えてあげなくてはならなかった。

 

食事は身体が回復するまではな子さんが食べさせたが、その後右手は使えたため自分で食べるようになった。

特に義母用に食事を用意することはなかったが、固めのものは細かく刻んで出した。

その後2〜3回発作が起こったが、それでも生き長らえることができ、

17年間寝たきりの生活を送った。

 

義母が倒れた当初は一時期仕事も休んだが、

しかしそう長く働かないわけにはいかなかった。

家にいた詳しい時期は覚えていないが、比較的早くに仕事に復帰した。

はな子さん夫婦が働きに出ている昼間は、家の近所に住んでいる義妹がきて、洋裁をしながら義母を看てくれた。

夜は義父が義母と一緒に休み、朝も義父が義母の顔を洗ったりして

みんなで介護した。

 

義母は右手が使えたので2つほど用意したおまるを替えながら、

自分で排泄物を取っていたため、ずいぶんと助かった。

現在なら入浴サービスもあるが当時はそんなものはなく、

寝たきりになってからは風呂に入れなかったので、

体を拭いてあげるより他になかった。

 

初めのうちはそうでもなかったが、やはり排泄物には一番苦労した。

現在のように紙オムツがあるわけではない。

義母も後の方はオムツでとるようになった。

義母のオムツには浴衣やネルの古着を使った。

 

大人だけに尿の量も多い。

尿が他で濡れてしまわないようにオムツカバーも使った。

しかし、そんなに長い期間オムツを使った記憶はない。

 

亡くなる3〜4年前から物が言えなかったため、よくわからないが少し痴呆が始まっていたようだった。

それまではおまるで取っていたが、夜中におしっこをしたで寝ている義父の布団の上に撒いたり、便をつまんでは畳へ捨てたり、頭に持って行ったりするようになった。

着物や布団を替えたばかりの時でもそんなことをするようになっていた。

そこでみんなで考えあって、義父が木のベッドを作り腰が当たるところに穴を開け、

その下に排泄物を受けるバケツを用意して取るようにした。

 

その前に保健婦さんから聞いた、丸い穴を開けたマットに排泄物を受ける丸い器を入れたベッドというのを使ってみたが、

手を持って行ったりするので使えなくなった。

そこで、それを見本にして、考えて作ったのだった。

このベッドは3〜4年ほど使った。

 

義母が倒れて2ヶ月後の10月に、夫が結核による2度目の入院をした。

約1年入院していた。

はな子さんは生活のための仕事、家事、介護のために

夫のところにはそう再々は行けなかった。

 

生活

家事はほとんどはな子さんがしていた。

当時は現在のようにガスも電気もない。

朝ごはんを用意し、自分用と長女用のお弁当を作るために、毎朝5時に起きた。

そして、7時半ごろ仕事に出かけた。

 

仕事が終わって家に着くと夕方5時半を回っていた。

それから夕食の支度。

仕事から帰ってきて、まず薪を焚いてご飯を炊いたりしなくてはならない。

当時は当たり前のことだったとは言え、それはもう大変だった。

 

また、夜のうちに洗濯をして干した。

手で洗うためなかなか乾かず、雨の多い時などは着替えにも困った。

当時家の裏には井戸があり、水は全て井戸の水を鶴瓶で汲み上げて使った。

洗濯物は家で洗い、すすぎは近くの川に夜でも行った。

時には子供を連れて行ったこともあった。

 

冬になると井戸の水が枯れる時期がある。

風呂を沸かす水も井戸の水を使ったが、その時期は川から汲んできた事もあった。

川までは汲んで帰って来るのに4〜5分かかった。

約10リットル入る大きなバケツが付いた天秤棒を使って、水を担いでいた。

風呂をいっぱいにするためには、大きなバケツに7〜8杯程必要だった。

つまり4往復しなくてはいけなかった。

 

そうして、はな子さんが布団に入るのは夜9時ごろだった。

 

仕事

はな子さんは採石場で働いていた。

その当時休みの日は雨の日だけだった。

30日間続けて行った事もある。

自分に用事があるとにに休むという形態だった。

 

別の会社へ原料の石をわりにも行った。

暑い夏でも、照り返しがひどく影ひとつもないような石の上で働いた。

目だけ光っているかのように日焼けした顔になった。

本当にきつくて、辛いものだった。

しかしいくら仕事で疲れても、家へ帰ったら家事や介護が待っているのだ。

 

毎日働きながらの介護生活に

「いつまで続くのだろう」

と思ったことがあった。

仕事帰りに

「ああ、もうあの家に帰るのはイヤ。どっか行きたいな」

「何で自分一人がこんな難儀をせないかんか」

と思ったりもした。

「このまま、一生こんなもんか」とも思った。

 

しかし、そんないろいろな思いを口に出すことはできなかった。

自分がするより仕方がない、長男の嫁の宿命だ、と受け入れるしかなかった。

本当に長い長い苦労だった。

 

 

夫の協力

 

テレビがではじめた昭和40年前後、義母が寝たきりで何もできず退屈しており、

はな子さんもあまり外へ出られなかった事もあって、

当時高嶺の花だったテレビを夫が無理をして月賦で買ってくれた。

テレビは義母にもはな子さんにも、良い慰めになった。

 

近所の子供達もよくテレビを見にきたものだった。

洗濯機、炊飯器なども出始めた時に無理をして買ってくれた。

洗濯機を買った頃はまだ水道になっていなかったため、

結局すすぐのは川に行って手でしていたが、それでも洗う手間は省け

絞るにしても以前よりだいぶ効率的になった。

 

こういうことに関して夫はとても協力的だった。

はな子さんの苦労を夫も感じていたのだろう。

苦労を少しでも減らそうとしてくれる夫の心遣いは、本当に嬉しかった。

ご飯のおかずを作ってくれた事もあり、それでずいぶんと助かった。

 

孫の誕生

 

昭和46年に孫が生まれ、年子で次の孫も生まれたため、

長男の妻に無理がいってはいけないということで、

昭和47年に仕事は辞めた。

それからずっと家にいた。

孫の守りをしたり、子供を預かったりもした。

 

最初は近所に住む看護婦をしている親戚の子供を2年、

義母の介護もしながらその子供が3歳ぐらいで保育園に行くようになるまで預かった。

昭和53年に義母が亡くなったが、その後も二人ぐらい預かった。

 

それからはほとんど外へ出ることはなかった。

はな子さんが60歳を超えた事もあるが、義父がほとんど出て行く人ではなかった事もあり、お昼を食べさせたりしなければならなかったからだ。

 

表彰

 

昭和50年、模範嫁の表彰を受けた。

表彰式には息子が車で連れて行ってくれた。

表彰に対する夫や義妹の反応ははっきりと覚えていない。

義父は直接はな子さんに特別なことは何も言わなかったが、

新聞の取材で「どんな嫁か」と質問された時

「100点満点」と言ってくれた。

義母はその頃痴呆もあったので

はな子さんの表彰のことは、知っていたかどうかはわからない。

 

近所の人たちは

「表彰されたねぇ」

「大変じゃったねぇ」と言ってくれた。

長男は結婚していたため、長男の嫁にもいろいろ世話になった。

 

表彰を受ける知らせがあった時、

はな子さんは自分が表彰を受けて良いのだろうかと思った。

模範になるというより当たり前のことをしているだけだ、

と当時夫も長男が両親をみるものだと考えていたし、

はな子さんも長男の嫁だから当たり前、宿命とさえ思い覚悟していた。

 

しかし、さすがにこんなにも長い間介護生活を送るとは思っていなかった。

今考えてみると、大変な生活をよくやったと思う。

「今だったらなかなか、若かったからできたことですけどねぇ」

とはな子さんは当時を振り返る。

 

表彰状は夫が飾っていたが、はな子さんが自分で下ろして押し入れにしまった。

今もそのままである。

表彰状と一緒にいくつか記念品をもらったが、何を貰ったかはもう忘れてしまった。

表彰状を受けた2〜3年後、老人洋上大学に参加した。

「さんふらわあ」というフェリーに乗って鹿児島へ。

一人では行く気にならなかったが、近所に参加する人がいたので一緒に行った。

 

結婚してからの初めての旅行である。

船内には、自分と同じような苦労をしている人がたくさんおり、

宿などで彼女たちとそれぞれの苦労や悩みを語り合った。

それは良い慰めになった。

そして、その日は何もしなくても座っていればご飯が出てきた。

何よりの褒美だった。

 

義母の死

 

義母は昭和53年の4月に亡くなった。

昭和36年の8月から約17年の介護生活だった。

この17年間は決してはな子さん一人で看てきたわけではない。

義父の手助けもあった。

家族の皆んなが協力してくれたからこそだった。

もし、一人での介護であれば、17年もの間はなかなか難しいかっただろうと思う。

 

義父の介護

 

義父は100歳の表彰を受けた。

野菜畑の草を刈ったり耕したりということが好きらしく

それが生きる全てのような人だった。

どこへ遊びに行くでもなく、毎日同じことをして元気に過ぎしていた。

 

しかし、平成11年4月下旬から寝込むようになった。

再び介護の日々がはじまった。

 

はな子さんの体も昔ほど無理が聞かなくなっていたが、

義父は頑固でわがままなところがあり、何でも自分の思い通りでないと

カンシャクを起こした。

 

オムツを使うとひどく嫌がり、オムツをのけると酷く汚してしまう。

汚物に手を突っ込み、排泄物をなすり付けてまわった。

その匂いはいくら拭いてもなかなか落ちない。

家の中もとうぜん臭くなる。

 

義母の時にはあまり怒った記憶はないが、

痴呆とわかっていても義父には少しきつく言ったこともあった。

しかし、基本的には昔とは比べ物にならないくらい楽だった。

 

義父には施設にも2〜3回入ってもらった。

家事にしても、ご飯は自由に煮炊きが出来る、

風呂を沸かすのも楽、洗濯もボタンを押すだけできれいにできる、

そういうことはほんとうに楽になったことだった。

いろいろなことに進歩を感じるが、何より介護のための様々なサービスが

使えるようになったことに、介護の困難さが軽くなったことを感じていた。

 

入浴などの介護サービスを受けるとき、他人が家の中に入ってくる。

実際にそういうサービスを義父の介護で利用したが、

他人が家の中に入ってくることの嫌悪感などはな子さんにはなく、

むしろ、「ありがたい制度ができて嬉しいことじゃ」と思った。

(家に他人が入ることを嫌がる風習があった)

 

体を拭くだけでは気持ち良くならないし、冬は寒くてそれもできない。

義父は風呂が好きではなかったが、それでも入れてもらえば

気持ちがいいのでずいぶんと喜んだ。

 

義父は平成12年8月に102歳で亡くなった。

大往生である。

義父が寝たきりになってから亡くなるまでの

1年4ヶ月、義父を介護した。

 

「もう、やっと解放されました」とはな子さんは言った。

同年10月27日に末の義弟も義父を追いかけるようにして亡くなった。

義弟は学校の教師をしており、その年の春に退職したばかりだった。

 

1年に二人ということで、一時期その取り込み用は大変なものだった。

四九日の法要もすみ、最近やっと落ち着いて来たところだ。

 

現在の体調

夫は若い時には体が弱かったが、

この頃ははな子さんよりも元気で、ゲートボールにも言っている。

 

最近はな子さんは夜の11時や12時ごろまでなかなか寝付けなくなった。

そうすると、翌朝は夫が起きて味噌汁を作ってくれたりしている。

買い物も夫に任せている。

 

はな子さんは今少し心臓が悪い。

若い頃から心拍数は低めだったのだが、夜の一番低い時には28ほどしか打ってないと

聞いた時には、流石にびっくりした。

昼でもだいたい44〜5くらいである。

ペースメーカーを入れるか入れないかの境目の状態だという。

 

膝や腰も痛くなりはじめた。

また、少し血圧が高く、夫が血圧計を買ってきてくれてからは、

日に何度も図っている。

「もう神経じゃ(気のせい)」と夫には言われるが、

中風には絶対になりたくないので、つい神経質になってしまう。

 

今は血圧のことが一番気にかかっている。

自分の時には人に世話を焼かせることなく、朝起きたら亡くなっていたというように

ぽっくり逝きたいとはな子さんは願っている。

 

長男夫婦は今近くに住んでおり、それは心強いのだが、

自分がしたような苦労を嫁さんには絶対にさせたくない。

人に世話を焼かせたくない。

そのことが一番頭にある、という。

 

これからの介護

自分の先のことを考えると、介護保険は必要だと思う。

家で嫁一人が付きっきりでずっと看るということは無理なことだ。

お互いに少しずつ人手やお金を出し合い、みんなに看てもらうということは

とても良いことだと思う。

 

「私らぁみたいに世話したもんでないと分かりませんでしょうけどね、高いとか何とか言いますけどね、少々のお金には変えられませんもんね」

とはな子さんは言う。

 

今になって考えてみれば、模範嫁として表彰状をくれるよりも、

入浴サービスなど少しでも実質的な手助けをしてくれた方が、

よほど有難かっただろうと思う。

 

介護は一日も手抜きができないものである。

今日は一日食べずにいて、というわけにはできないからだ。

自分の体が辛い時であっても人の面倒をみなくてはならないと言うのは、

ほんとうに辛いものである。

そういう意味でも、今ショートステイなどが使えるという制度になったのは、

ありがたいことだと本当に思う。

 

義父が寝付いているときに、夫と二人で風邪を引き熱が出たことがあった。

その時は施設に入れてもらった。

それはとても助かった。本当に嬉しかった。

 

これからの介護として、いつも助けてくれなくてもいい。

しかし、本当に大変な時や手が欲しい時にはすぐその要求に答えてくれる、

そんな体制を整えることが必要だろう。

いざという時には助けてもらえるという事がわかっていれば、

安心して暮らせる体。

 

はな子さんはその体制が早く整うことを望んでいる。

 

 

はな子さん、聞き取り記録 完了  

平成12年度ソーレ助成活動・高知県模範嫁聞き取り調査・研究支援事業