昔の結婚生活を伝えたくて…
2000年に「高知女性の会」のメンバーが、
「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから
了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して
聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。
出会い・結婚
A村B地区に住んでいるのり子さんは、洋裁学校に通っているときに、青年団で活躍していた夫を知り合い、昭和29年11月、19歳の時に結婚した。
結婚する前は「仕事はそんなにせんちかまん」と言われていた。
実家は婚家から8キロ離れたC地区で、やはり農業をしていたが、学生だったこともあり、農業どころか、ご飯を炊くことすらしたことはなかった。
結婚したとたん、のり子さんの生活は激変した。
義祖父母夫婦、義父母夫婦、のり子さん夫婦、の3夫婦と義弟、義妹が一緒に同居する大家族の嫁になった。
義祖父母には子供がなかったので、義祖夫の年の離れた弟を子供にしていた。
つまり、のり子さんの義父は、義祖父の弟ということになる。
義母はその当時60歳近くで、義弟と義妹は高校生だった。
義妹はのり子さんより1歳年下だった。
のり子さんは、義祖母からは「ねえ」と、義母からは「おまん」と呼ばれ、名前で呼ばれることはなかった。
生活
結婚した当時、毎日朝は6時には起き、洗濯をしてから義祖父についてD山まで植林に行った。
また、1週間に一度市があり義母が行っていた。
義母のころにはリヤカーがあったが、
義祖母の代は天秤棒を担いで山を越えて町まで売りに行ったそうだ。
この家では義祖母の、そのまた母の代からこうして生計を立ててきた。
市に出すコンニャク作りは夜中の2時ごろまでかかった。
あとは柿、タイモ、季節の野菜などを出してきた。
料理は義祖母がして、義母は専から市や外へ売りに行き財布を握っていた。
義父はもともと病身で、仕事をする状態でなかったが、好きなことはしていた。
義弟、義妹は学生で家へ帰ってからも何もしなかった。
働き手はたくさんいたが、それでも近所の人を雇っていた。
農作業は今のように機械化されておらず、全て手仕事、それも素手だったので
なんども手を切った。
B地区は水の不自由なところで、谷もなく、山の湧き水を使った。
風呂などは、長い竹の筒で山から引いていた。
雨量の少ない冬場は特に困った。
洗濯もまたのり子さんの仕事だった。
「洗濯は畝を超えてずいぶん下の谷まで洗いに行きよりました。当然ですが、地元の皆さんが洗うところでは年寄りのオムツは洗えんと思い、まだずーっと下の方へ持って行ってねぇ・・・。帰りは濡れて重とうなりました」
と当時を振り返った。
洗濯機が家庭に入ったのは昭和32年ごろだった。
義妹が結婚するときに買ったのを機に、家にも備えてもらったのだ。
それでも、オムツは谷へ洗いに行った。
オムツはネルの古い着物でのり子さんが作った。
雨の日や梅雨時は乾かすのが大変で、炉裏に火をおこしその上にザルを天井からつり下げて、そこに洗濯物をかけて乾かした。
それはのり子さんが考えたのではなく、前からそうしていたという。
台所は竃と流しがあり土間だった。
囲炉裏のある座が少しあった。
壁は火が恐ろしいからと、ブロックを立てていた。
「19歳というとまだ子供ですよね、家ではご飯も炊いたことなかったのに、夜も遅くて、ご飯を食べていたらポーンとお茶碗が落ちて、パンっと割れて目を覚ましたことがありました」
のり子さんは今も忘れ得ぬ記憶の一コマを振り返った。
子どものこと
昭和32年と34年に男の子を出産した。
お産の時は家で助産婦さんを雇った。
との時にお祝いのお客(宴会のことを高知ではお客という)をした。
近所から親戚が集まり、節句なども祝った。
何かと言っては集まり、酒盛りをする。
そういった風習のある地域だった。
のり子さん自身はお酒が飲めなかった。
「お産の後は一ヶ月ぐらい休ませてもらいました。まあ、洗濯はしたりしましたので、野良仕事はせんかったというだけのことです」と言った。
お金のこと
農家に休みはない。
朝から夜まで働くだけの働き蜂だった、と言う。
30キロ、40キロの米俵を担いで山道を行く時、骨がプリプリと荷の重さで砕けそうな気がした。
天秤棒を担ぎ、山を越えて炭やコンニャクを持って市へも行った。
それだけ働いても、嫁ということで一銭のお金ももらえなかった。
夫や義妹は勝ってに使っていたが、のり子さんはできなかっった。
実家で小遣いをもらったこともあった。
財布がのり子さんに渡ったのは義母に変わり市に行き始めてからだった。
山の中の暮らしは現金収入が少なく質素な暮らしぶりだった。
「ボロになっても継ぎ当てをして着れば、2000円で新しい物を買ったと同じに使える」
と言われ、継ぎ当てしたモンペをはいて市に出ていると、同業者からルンペンみたいだと笑われたこともあった。
また、東京の大学へ行っている義弟への仕送りもあり、その当時が金銭的には一番大変だったという。
大学卒の初任給が5万円だった頃、毎月5万円の仕送りは大変なことだった。
上の義姉たちもみんな女学校を出ており、義妹は高知市内の高校へ通っていた。
生活は質素でも義母は教育には熱心な人だった。
介護17年、義祖父母、義父母の4人を看た
昭和35年に義祖父が寝つき始めた頃からのり子さんの介護が始まった。
最初の頃は義祖母が子供の面倒を見ながら義祖父母のそばに付いていたが、
夜になるとのり子さんも子供と一緒に寝て世話をした。
義祖父は何年も寝込むことなく、翌年3月に亡くなった。
次に義父が寝付きはじめた。
義父が入院していた病院はf市の外れにあるe病院というところで、大変に遠い所にあった。
村にも診療所はあったが、かかりつけの先生がe病院にいて、義父がどうしてもということで遠いけれども仕方なく入院したのだった。
昼間はいいが、夜は寂しいということで、度々病院まで通った。
夜は最終7時のバスでf市まで行き、朝は市番のバスで帰ってきて後、
休む暇もなく子供の世話や家の事を済ませ、
また夜になるとバスに乗って病院へ通うという生活だった。
病院では、夜中でも何かと用事を言われ寝る暇もなかった。
「一時はどうなるかと思いました。若かったからできたのでしょうね。今ならとてもとても無理ですわ」と言う。
最後の方は結局は家で看た。
その当時は義祖母も寝付いていたので、義祖母、義父と一緒に看た。
義父の部屋は奥で、義祖母の部屋はその手前の小さな部屋だった。
寒い時は寝込んでしまわないように、半纏を着て毛布にくるまって両方の部屋の間にうずくまってうとうとしていた。
村から借りたベッドを使い、寝間着は介護しやすいように上下が分かれた着物風の物を縫った。
洗濯物を干していても
「おらんか、おらんか、」とたびたび声をかけられ、夜中には何回も
「おしっこじゃ、」と呼ばれた。
綿の布団だと漏らした時に始末が大変なので、
ベッドの上にスポンジマットを敷き、その上にシーツを掛けておいた。
もうその頃には義父はオムツを全部はずし、布団の上でそのままおしっこや便をするようになっていたからだ。
その頃は本当に大変で、自分も倒れるかと思った。
しかし、
「痴呆になって徘徊されるよりは・・・」と自分を納得させていた。
また、
「おばあさんはそんなでもなかったですが、男はねぇ・・・舅は辛抱のない人でした」(怒りまくっていたのだろう)と当時を振り返りのり子さんは言った。
昭和50年になり村からヘルパーが派遣されるようになった。
昼間ヘルパーが来て話し相手になってくれると、退屈せず、夜もよく寝てくれるので大変に助かった。
当時は家で義祖母、義父が寝ていたので、
「老人ホームみたいや」とヘルパーさんが言った。
すでに入浴サービスがあったが利用せずのり子さんが入浴させていた。
義祖母は体が大きい上に足が弱かったので、浴室までは抱いていったが、浴槽には入れずに大きなタライで洗った。
「痛いところがやわらぐ」と言って毎晩入りたがった。
それでも義母の方は長いこと病院に入っていて家で看たのは少しの間だった、とのり子さんは言う。
介護17年、義祖父母、義父母夫婦の4人を看たことになる。
夫は「介護は女の仕事」だと言って全く手伝わなかった。
のり子さんもそういうものだと思ってやってきた。
のり子さんの実母もまた、半身不随の姑を7年間世話していた。
それを見て、自分も頑張らねば、と励みにしてきたのだ。
「昔は嫁が働くのが当然で、親を家で看るのが当たり前でした。」
とのり子さんは言った。
表彰
世話のいる年寄りを誰かに頼んで行かせてもらい、表彰されたいとわ思わなかった。
「十数年お世話している人もいるのに、自分だけが表彰されるのは心苦しかった」
と言う。
表彰のことは夫にも実家の母にも言わなかった。
そして現在に到るまで、夫からは何の言葉もない。
義祖父はなくなる前に
「長い間世話になったのう」と言ってくれた。
義祖母は自分の子供ではない弟夫婦の子供13人育てただけあって、気の大きい理解のある人で、のり子さんの子供達も見てくれた。
そう言ったこともあって、義祖母への介護は恩返しのつもりでもあった。
また市へ行く日には、夫の兄、姉が介護を手伝ってくれた。
「周りの助けがあってこそです。」とのり子さんは言った。
後に県から茶器と記念品、表彰状が一緒に郵送されてきた。
最後に
のり子さんの両親はもう亡くなっている。
今は古い家だけがあり、お墓はg地区の方へ持って行ったという。
母が元気な時は
「私の目が黒いうは草を引く」と言ってた世話してきたやまも今では荒れ放題である。
「嫁に来てから里帰りとか、そんなにしてないです。私も介護が目の前にぶら下がるようになりました。今度は主人を看る番です。」と言った。
のり子さんは現在長男夫婦と孫と一緒に暮らしている。
介護のことで、嫁にはあんなような苦労はかけたくないと思っている。
しかし、家には居たいという思いもあるが、介護には車椅子が通れるように段差を取り除いたり、それなりの設備が必要だから複雑な思いもある。
「この辺りの山も荒れてきたし、イノシシも出てきて生活できんようなります。私のところにもムササビが住み着いてねぇ、動物と同居しています。」
「嫁は労働力ですからね、山の中で年寄りばっかりのところに来て、仕事戦でもえい、って言われても、仕事をせんわけには行かんわねえ。今思うとまっこと馬鹿よね、と思いますがね。来たからにはもう帰る所はないわけですし、当たり前と思うて働いてきました。楽しい、という思い出とかは一度もなかったです、生まれてくるのが早かった・・・。」