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【模範嫁を訪ねて】ゆり子さん18歳で義祖母、義父母、義妹同居婚

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています

 

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結婚

 

ゆり子さんは大正14年に農家の7人兄弟の三番目として生まれ、円満な家庭で育った。

実家の田んぼの隣の仲人をしていたお婆さんに

「ひゃくしょうしゆうからあの人を紹介してあげよう」と紹介された。

ゆり子さんはまだ結婚するつもりはなかったが

昭和18年、18歳で結婚した。

結婚した当時は義祖母と義父母と義妹、そしてゆり子さん夫婦の6人であった。

 

実家も農家であったが洋裁を習っていたため農作業は時々手伝う程度だった。

習っている最中の洋裁も

「続けて行かすから」ということで嫁いで来た。

「姉さんばっかりで私は習わせてくれざった」

と今でも義妹に文句を言われるが、義母は理解のある人で、その言葉とおり農業の合間に洋裁の他にも編み物などいろいろ習いにいかせてくれた。

 

結婚する際、実家の両親に

「親は大事にせないかんぞね」と言われた。

義父母は「ゆり子さん」と呼び何も知らないゆり子さんにいろいろと教え

「えい嫁や」と誰に会うてもおじいさんが話して、私をえい嫁にしてくれた。

「恩は忘れられない」と言う。

 

義父母ともできた人で実家にいるよりここへ来てからの方が良かった。

今でも毎朝ご飯とお茶を、珍しいものが手に入った時には、

それを義父母にお供えする。

ゆり子さんは義父母に、本当に良くしてもらった、と何度も言う。

夫はお人好しで通っていて、細かい事は言わない人で、

一度も手を上げられたことがない。

実家へ帰りたいと思うこともなく幸せだし、

結婚後一度も実家へ行って口をこぼすような事はなかった。

 

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機織り

 

ゆり子さんの実父はシャツを買ってきて、見様見真似でもう一枚新しいシャツを縫うほど器用な人だった。

ゆり子さんはミシンの使い方を父親に倣い、縫い物の面白さを発見した。

それが洋裁学校へ行きたいというきっかけになった。

 

結婚してからも、編み物や手織りぬので子供や義母の着物などを縫った。

稲岳しか作ってない頃は、今と違って農業の合間に時間があった。

全て昼間したのだが「よう出来たと思う」とゆり子さんは言う。

 

隣のお婆さんが機をおることを知り

「私、里から機を借りてくるき教えてね」と頼むと、お婆さんも

「うん、教えちゃらあよ」と機織りを教わることになった。

その当時、すでに機織りをする人はあまりなく、

近所でも隣のお婆さんとゆり子さんぐらいだった。

 

二番目の子供が生まれた昭和21年ごろから、その子が小学校に通学している昭和30年まで、何十反も織った。今でも記念に反物を置いてある。

白糸を買い、紺屋で染めてもらい、それを自宅に持ち帰って、糊をつけて伸ばす、

といった作業をした。

縞を作るのが楽しみで、他人の着物を見ては、ああいう縞に織ってみようと、

当時は常に考えていた。

 

織るのには1週間もかからなかった。

白と黒の碁盤模様は義父のシャツに、真っ白の布を織ってブラウスにしたりした。

その頃、既製品がない事はなかったが買った事はなく、

中学生になるまでは子供の服を全部縫った。

「好きやった。縫いもんが好きで勉強はいかんかった」

とゆり子さんは言う。

 

生活

 

結婚当時の生活は、井戸から釣瓶で水を汲んで風呂に入れ、

ご飯は薪で炊き、冬場は夫と荷車で山へ薪をとりに行った。

1〜2年分の薪を用意した。

ガスが入る昭和30年ごろまで山へいった。

今は洗濯機に入れておくだけで洗濯できるが、結婚当初はたらいで手で洗い、

生地の厚いものは洗うのが大変だった。

 

竈の脇へおが屑のあまだしというものがあった。

かま罐におが屑と水をちょっと入れながらギシギシ詰めて、

差し込んである棒を引き抜いて下の方から火を付けると、

下から上に火が上がってくる。

それでご飯を炊いたり、お湯を沸かした。

一昼夜火を保つことができる便利なものだった。

一昼夜でバケツに5〜6杯以上のおが屑が必要だった。

その当時近辺のどの家にもなかった。

 

仕事

 

ゆり子さん夫婦は今は農業をしていない。

土地を貸し、人に作ってもらっている。

かつては、米の二期作をして、煙草を作った。

煙草をやめてサツマイモを作っていたが、

年をとると重たくて体にこたえるようになったので

葱を作るようになった。

 

農繁期は10〜15日ほどの間、山間部から2人ぐらい人を雇った。

かつては、稲を刈ってすぐ植える年2回の米作りだったが

特別忙しいとは思わなかった。

百姓がする当たり前の仕事だからである。

昔は田植えも稲刈りも稲扱きも全部手作業だった。

「今は機械でダーッと刈ったらもう籾になって便利になった」

とゆり子さんは言う。

 

当時は公民館で共同炊事があって、

昼食、夕食のおかずとおやつを作ってくれた。

「おやつが出来ましたよ」

「夕餉ができましたき取りに来てください」

と放送があると、子供に入れ物を持たせてとりに行かせた。

すぐに食べられるから手間がかからなかった。

約20年前まであったと記憶している。

 

 

 

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出産・子供

 

出産は助産婦にきてもらい自宅でした。

お腹がつかえるからあまりできないが、

仕事はできる範囲で出産直前までした。

長女は昭和19年、次女は昭和21年、三女は昭和24年と

3人の女の子が生まれた。

 

義母が「お産は大事やから33日は何ちゃあせられん」

と言って休ませてくれた。

「お産をしたら赤物を食べないかん」と言って鯛や甘鯛を炊いてくれた。

ゆり子さんも夫もさんにの子供を一度も風呂に入れたことがない。

義父母がいつも入れてくれた。

 

農作業で汚れて帰宅すると

「早うに風呂入れるき、連れてきとうせ」と義父母が言ってくれるので

子供たちを風呂場へ連れて行き、

風呂から上がったら着物を着せるだけだった。

その時の思い出を

「そればぁ大事にしてくれたき、自分の親よりもまっことえいと思いますがねぇ」

とゆり子さんは話した。

 

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介護

 

昭和29年に義父が倒れ、一年後に義母が倒れた。

義父母とも中風だった。

亡くなるまで20年間介護した。

 

ゆり子さんにはそれまでに中風になった実家の祖母、母を看てきた経験があった。

義母は倒れる前に肩が凝ることを口にしていた。

今だったら何かと気をつけるのだろうが、倒れて後になって思い当たる。

義母が箸を落としたので

「あら、おばあちゃん中風になっちゃせざったかね、と言うと、ヒューッと倒れた」

そして、その後すぐ意識がなくなった。

今ならすぐ救急車で病院に行くところだろうが、自宅で頭を上下氷で冷やし、湯たんぽを入れて看病した。

往診を受けて意識不明後11日目に手を動かしたので

「あぁこれで気がつくな」と思って嬉しかった。

 

はじめのうちはオムツを使ったりして手が掛かった。

昔のことで今のように紙オムツもなく、オムツを洗うのにお湯を使うため

手の皮がむけたこともある。

徐々に回復し、座ることができるようになった頃はオムツも不用になり、

尿瓶で取ることができて割と楽だった。

 

義母は、具合の悪い時はゆり子さんたちと同じ棟の部屋で寝ることもあったが、

いつもは別棟の部屋で寝ており、三度の食事を運んだ。

用事があればベルで知らせてくれた。

夜中も起きる必要がなかったわけではないが、

「わりと世話のない人でした」

と介護の苦労話を聞いても特別思い出すこともない。

 

食事は義母に一番食べさせた。

ゆり子さんが外出するときでも

「おばあちゃんのご飯を一番先に食べらしちょいてよ」

とことづけて子供たちはそれを守っていたが、

ある日、外から帰ったゆり子さんが

「お昼食べさせてもろうた?」と聞くと

「おまんが帰るまで待ちよった」ということもあった。

 

魚が嫌いな義母には野菜を柔らかく炊いて食べさせるなど、そのメニューには困った。

義母は回復してくると、柔らかくしたり、食べやすいようにすれば、

左手に持たせたフォークで自分で食べる事はできた。

お茶は寝飲み(吸飲み)へ入れていた。

風呂は夏は少し流す程度、冬は寒いので拭く程度だった。

髪は洗って後ろに団子に結った。

 

義母の頭はしっかりしていた。

ゆり子さんが忘れてはいけないことは義母に

「覚えちょいてね」と頼んでおくと

「ゆり子さん・・・」と声をかけてくれた。

「おまんが悪うなったら困るきに、お医者へ早う行っちょいてよ、悪うならんようにしちょってよ」

とゆり子さんを気遣い、また実の娘よりゆり子さんを頼りにした。

ゆり子さん自身も義母が倒れてからは、畑に仕事に行っても、用事があって外出しても、義母のことが気になり、いっときも頭から離れたことがなかった。

 

当時を振り返りゆり子さんは

「忙しいは忙し買ったですけどねぇ、これがよめのつとめと思うて大変とは思わざったです。その時はその時で一生懸命やりゆうからね、若さというもんで」と言った。

 

表彰

 

ゆり子さんは介護を始めて16〜7年たった頃に表彰を受けた。

夫の姉が婦人会の世話をしていて、ゆり子さんの知らないうちに推薦してくれていた。

 

表彰を受けた時、義母は喜んでくれた。

「私はこればあのことで恥ずかしいですね、当たり前のことをしたのにね」

とゆり子さんは言う。

表彰状はずっと飾ってあったが、数年前に紐が切れて以来しまってある。

表彰式の後、近所の人がお客(宴席)をしてくれたことを思い出し、

「私らの時代は近所も仲がよかった」とゆり子さんは言う。

 

表彰を受けた年か明くる年の10月ごろ「さんふらわあ」というフェリーに乗って

東京・箱根・熱海へ行く老人洋上セミナーに参加した。

家族みんなが「行っておいで」と送り出してくれた。

義母の世話はみんなが代わりあってしてくれたので、

心配せずに行くことができた。

 

 

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これからのこと

 

ゆり子さんの3人の娘はすでに結婚している。

一旦は夫婦だけ担っていたが、

次女夫婦と孫2人の4人が同居するようになった。

「私は(同居しているのが実の)娘やき言いたいように言えます」

と言いながら、今の嫁姑の関係を見て

「私らの教育と違うかもわからんけどねえ・・・」と言う。

 

59歳で交通事故に遭い内臓破裂の瀕死状態になったが、奇跡的に助かった。

そのほかにも子宮筋腫や股関節の手術をした。

膝さえ悪くなければ

「まだ何しても若いもんには負けんという気持ちはあるけどね」

と言うが坂道では杖がいる。

この膝の痛みをゆり子さんは

「若い時に働いた恩給」だと言う。

できるだけ若い者に負担をかけないように、

悪くならないように心掛け、デイサービスにも行っている。

子供たちに世話にならないように元気でいたい。

 

自ら立てた目標は80歳!

 

                 ゆり子さんおわり

 

 

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