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【模範嫁を訪ねて】18歳で結婚と同時に7人家族の主婦になったよし子さん

 

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています

 

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よし子さん

 

出会い

 

よし子さんの実家は農業であった。

夫とは、よし子さんの実家のすぐ隣に住んでいた夫の同級生を通して知り合った。

そして、昭和24年に高校を中退して18歳で結婚した。

 

婚家は地場産業を扱っていた。

この時の家族構成は、義父母、18歳と16歳の義弟、義妹、

よし子さん夫婦の7人であった。

下の義弟は高校生、上の義弟は家業を手伝っていた。

 

結婚生活

 

よし子さんは結婚と同時に7人の家族の主婦となった。

当時、義母はすね(ひざ)が悪く立ち働くことができず、

家事全般はよし子さんがすることにんあった。

 

飲み水は家の外にある井戸から、鉄瓶でくみあげ、

水が5〜6リットルくらい入る大きなバケツに入れて、

そのバケツを天秤棒の両端につけて担いだ。

これまで天秤棒を担いだことのんあいよし子さんにとって

水汲みは大変な仕事だった。

雨の日は傘をさし、晴れの日よりも少し小さめのバケツを

手で抱えて運んだ。

時には途中で水をこぼすこともあった。

 

井戸水はセメントで作った桶に貯めた。

桶の下に水抜きの穴を開け、よるに水を使った。

水は冷たくて大変だった。

蓋付の桶はバケツで5杯ぐらいでいっぱいになる大きさで、

流しのそばにあり、水をすぐ使えるようにしてあった。

冬はあまり溜めても冷たくさるし、

夏は汚くなるので、水汲みは特に時間を決めずに、

水が無くなったら汲んできて溜めた。

 

朝の分は大抵夕方、汲みに行った。

釜や食器、野菜などは家の中に引き込んでいた川の水で洗った。

この使い水は各家庭に引き込まれていて、汚いものは一切洗わなかった。

汚いものは家のない川下に持って行って洗った。風呂の水もこれを使ったが、雨の日は井戸から汲んでこなければならなかった。

また、雨が強く降る時はバケツに雨水を受け、その水を風呂に使うこともあった。

これは、昔からの生活の知恵だった。

 

水を汲みに行く生活は東京オリンピックの後ぐらいまで続いた。

妊娠中は「大事に」と言って夫が水汲みを手伝った。

長男を妊娠中に、長女をおぶって洗い物を持って出かけ、

落として全部割ったこともあった。

「こんな暮らしが少し前まであったかと思うと、今は天国やと思っています、水道ができてからは、それは楽なものだった」とよし子さんは言う。

煮炊きは薪であった。

当時は洗濯も手洗い、義母は自分のものは自分で洗っていたが、

よし子さんは義母以外の家族の洗濯をし、

食事の支度や掃除など家事労働で1日が終わった。

 

子供は長女が昭和29年、長男は昭和33年に誕生した。

2人とも婚家に産婆さんが来て出産した。

出産後5日ぐらいは安静にしていた。

この頃は義母のすね(ひざ)もだいぶよくなり家事や子守も手伝ってくれた。

 

結婚後は実家が近かったのでよく里帰りをしたが泊まることはなかった。

若い頃は、

泊まったら母が何もかもしてくれて朝はゆっくり寝られるのになぁ、

もっと遠かったら泊まれるのになぁ、と思った。

 

よし子さんは昭和38年に地元のC小学校へ給食調理員として働きに出るようになった。

D町では、E小学校とC小学校の2校がこの年から給食が開始されたのである。

PTA役員から「やってくれんやろうか」と頼まれて

「遊びゆうきやらしてもろうてみようか、ようせんけど」

というくらいの気持ちで勤めることになった。

当時はこんな調子で割合簡単に就職が決まった。

これまでにも農業の手伝いをしたり

「してみん(してみない)?」と誘われていろいろな仕事をしてきた。

「働くことがないき内職をする」

とよし子さんが言い出した時には、夫は

「それだけはやめてくれ」と言った。

C小学校給食の仕事には義父母も夫も

「そりゃえい事じゃないか」と賛成した。

 

 

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この頃の家族構成は、よし子さん夫婦に子供が2人生まれて9人になっていた。

食事は住み込みの男も子を入れて10人分作らなければならなかった。

義母と二人でしていた。

自分が仕事に出ることができたのは、義母が家事を手伝ってくれたことと、

職場が近かったからだと思っている。

C小学校は家のそばにあり、始業のベルが鳴り出してから

走っても間に合う距離だった。

規則も今ほど厳しくなかった。

 

当時は児童120人程度で、先生を入れて130人ほどだった。

給食は用務員さんと二人で作った。

勤め始めた頃には何をしているかわからなかった。

校長先生が心配して

「できゆうろうか」と給食室に度々覗きにきた。

給食を作ることだけに一生懸命で、

流しは向こうが見えなくなるほど洗い物で山になっていた。

 

働きはじねの頃は、5時過ぎには起き、帰りは5時の決まりだったが、

大抵は5時前に帰ることができた。

よしこさんは臨時で2年間勤め調理師の免許を取り、

その後職員に採用され31年間給食の仕事に携わった。

当時調理師の受験資格は2年間の実務が必要だった。

そこで受験資格ができたとき、休みを利用して2日くらいの講習を受けて

受験して合格した。

昭和43年にはS小学校の校長先生に勧められて車の免許も取った。

夏休み前に夜間教習に通い、夏休みになってからは昼間毎日通った。

 

調理場は下がコンクリートで冬場はひどく冷えた。

こんな中で一日中たち仕事をし、夜や休みの日は義父の介護をする毎日出会ったが、

昭和47年ごろC小学校は児童数が50人くらいに減少しており、

仕事に慣れたこともあって仕事は楽になっていた。

そのためよし子さんはこの頃の生活を大変だとは思っていない。

 

昭和56年に給食は自校方式から給食センターに変わり、

勤務先が給食センターになった。

センターでは児童2600人分を14名の職員で作った。

目が回るくらいの忙しさだった。

それに加えて人間関係も大変で辛かった。

辛いことを忘れるためこの頃、よし子さんは趣味として絵画を始めた。

ちょうどs小学校で一緒だった先生も習いに行くということで一緒に行き始めた。

f小学校で辛いことがあった時は、辞めようと思ったが

「辞めたら負けじゃ」と励ましてくれる人がいたし、

絵を習うことで嫌なことは忘れることができた。

 

夫の死

 

よし子さんの夫は地元の消防団で活躍していた。

夫は昭和47年の災害時に出動して、二次災害に遭い死亡した。

一家の家計を支えた夫は社交的な人で、ptaなどにも出席し役員もした。

よし子さんが調理員を勧められた時も理解を示してくれた人だった。

生計の担い手を亡くして、家族5人の生活がよし子さんの肩にかかってきた。

この時、よし子さんはまだ39歳の若さだった。

 

生活費はよし子さんの給料と夫の多少の遺族年金でまかなった。

よし子さんが働いていたので生活費には困らなかった。

夫の死から10日目に今度は実妹が亡くなった。

夫が亡くなってしばらくは、人に会うのも嫌で自分の殻に閉じこもり

みんなが優しくしてくれることがうるさく感じられ

「仕事を辞めてもかまん、もう嫌、仕事せんでもえい」と思った。

しかし、周りの人たちに

「そんな事言いよったらいかん」と慰められ、夫の死についても

「病気なんかで亡くなるのがわかっていて、ずっと世話をしてきて亡くなったのなら、

なんか納得がいくような気がずるけんどね、もう元気で突然じゃったからねぇ」

と当時を振り返った。

元気だった夫の突然の死から立ち直るまで何年間もかかった。

あまりにも辛すぎたためか、この当時の記憶はほとんどない。

 

この時長女は大学1年生で、長男が中学3年生だった。

長女は「学校を辞めようか」と言ったが

「辞めんでも、お父さんはあんたを学校へやりとうてしよったがやき、続けて行ったらえいわい」と言って長女を卒業させた。

長男が高校を卒業した時、ぎぼと二人だけになっていた。

長男は長女が県外にいることもあって、二人を心配して県内で就職した。

 

夫、実妹の死、3年後の昭和50年に義父の他界と不幸がまとめてよし子さんを襲った。

あまりの不幸続きに親戚が

「おまんくに来るがはぎっちり不幸ばかりで、喜びで来た事がない」

と言ったほどである。

夫の死で相談相手を失った。

「何が辛いと言っても、物事を全て一人で決めるということ、相談相手がいないという事が一番辛かった。特に子供の就職問題とか、結婚問題などがつらかった」と言う。

 

介護

 

結婚当時元気だった義父は夫が死亡した昭和47年ごろ、軽い中風の症状が出た。

身体の右側に麻痺があった。日常生活には支障がなかった。

右手が不自由なため、左手で桑を持ち好きな盆栽の手入れや庭木の手入れをして

楽しんでいたし、外出も一人でできたので、手がかかると言うことはなかった。

中風が悪化し、その後膀胱癌にもなり入退院を繰り返して、

昭和50年に自宅で看取った。

 

義父の介護に関してよし子さんは

「私は大した事なんちゃあしてない。本当にそれほどの事していないから」と言う。

入院中は義母が付き添い、退院後は昼間は義母、夜は義母と二人で介護した。

義母が手伝ってくれたおかげで義父の介護を大変だとは思わなかった。

「おばあちゃんがおらんずつ全部自分でせないかんかったら、いろいろ、よう忘れんばあの辛い事があったかもしれんけんど、私はそんなこんなでおばあちゃんがおったから、うんと辛いことはなかった。」

と言う。

それでも、排泄の時は恥ずかしかったらしく、

よし子さんがいるのに義母を呼んだりしていた。

たまたま義母が留守の時に尿が出ていないか訪ねても

「何ちゃあ出ちゃあせん」と遠慮したり

「どうしてもトイレに行く」と言い張って、

結果的に間に合わなかったりしたこともあった。

 

ぎぼは最近目の手術をした。その後少し痴呆気味である。

退職したよし子さんは現在義母の介護をする日々である。

 

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表彰

 

昭和49年に表彰されたが表彰されるという知らせは、誰から知られたか

表彰式に出席したかどうかは覚えていない。

表彰状と記念品のお盆をもたったと思うが、

どこにかに仕舞い込んでわからなくなっている。

表彰された時、「自分はなんちゃあせんのにこんなに貰うたりして、私は貰うものじゃない。表彰されるほどのことはしちゃせんに、私が表彰されるのはおかしゅうて」

と自分が表彰される事が不思議だった。

「もう決まっちゅうき」と言われて、表彰は受けたが、後になって

「あの時、表彰してもろうちょって、良かったろうか」と思った。

 

嫁というより子どものような気持ちだったので、表彰されて嬉しいという気持ちは起こらなかったし、表彰に関する記憶も少ない。

表彰されたときの周りの人たちの様子も覚えていない。

むしろ、表彰されたことよりも、一生懸命働いて毎日の生活を支えてきたことの方を、

よく覚えている。だから、表彰されたことについては、

「何か恥ずかしいような、こそばい、そんな気持ちもする」

と語ってくれた。

 

退職後の生活

 

退職してから、義母の介護をするかたわら、

元同僚と趣味の絵や山登りを楽しむ日々を送っている。

「仕事を通じて、良い先生とも巡り合え、いろいろな友達ができ、趣味もいろいろできた。仕事をしていて本当に良かった」と言う。

現在でも、学校に勤務していた頃の友田ととの交流がある。

絵は今では一番の趣味である。

友達との山登りは、健康を維持するために行く。

「今はうんと幸せや」と言う。

 

そして趣味の絵を描いたり、仲の良い友達と旅行や山、買い物などを楽しむ事がよし子さんの支えとなっている。

現在、よし子さんは住み慣れた土地で、平成3年に新築した自宅で義母の介護をしながら、趣味を楽しむ毎日である。

 

                   よし子さんおわり

 

 

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