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a day in my life

【模範嫁を訪ねて】昭和36年頃22、23歳で結婚したやす子さん

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています

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出会いと結婚と知らなかったこと

 

昭和14年にやすこさんは妹一人弟二人の長女としてa村で生まれた。

父親を戦争で早くに亡くしたので母親は一人で3人の子供を育てた。

実家では母親が少しの田を耕しており、

やすこさんも学校が休みの時などは手伝っていた。

 

結婚前は土木会社で働いていて、その時にa村に仕事できていた夫に見初められて、

昭和32年頃、22、3歳で結婚してb村に来た。

 

結婚するまで、杖をついて歩く足の不自由な義父と

目のほとんど見えない義母がいることは、何ひとつ聞かされて位なかっった。

 

夫は7人兄弟の次男だったが、他の兄弟は皆他県に行っており、

夫も土木の仕事に出ていたために、やすこさんが結婚するまでは、

目の悪い義母が煮炊きをして、

足の悪い義父が火を見るようなかたちで、

二人で家事をしていた。

 

しかし、やすこさんが結婚して家に入ってからは

家事は全てやすこさんがひとりで全部するようになった。

結婚当時の家族構成は、

やすこさん、夫、義父、義母の4人だった。

 

 

4人の子供を自宅で出産

 

昭和37年に助産婦さんに来てもらい長男を出産した。

昭和40年に長女、42年に次女、44年に次男の出産時には

夫や夫の姉に取り上げてもらい、病院には行かなかった。

 

産後の肥立で休んでいる間は夫が炊事をした。

自分の代わりをしてくれる人もいなかったため、

ゆっくり休むわけにもいかず、産んで1週間後には働き始めた。

 

義母は足は大丈夫だったので、

長男が生まれた時は背中におんぶしてくれたこともあったが、

大体はやすこさんが子供を背負いながら義父母の介護をした。

 

 

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薪で風呂、谷の水で洗濯、ひとりで家事

 

製材の橋切れを買ってきて薪にし囲炉裏に鍋をかけてご飯を炊いた。

風呂も薪で沸かした、それはプロパンガスに変わるまで続いた。

 

家の裏がずっと小道になっていたので谷からパイプで水を引いていた。

当時はb村も冬は雪もよく降って沢の水はとても冷たかった。

風呂を沸かした時はそのお湯をタライに入れて洗濯もしたが、

すすぐ時や炊事には水を使うため、手がひどく割れひびも切れた。

 

子供のオムツ、大人のオムツ、そして家族全員の着物、

洗濯物は、洗濯板で洗って干して取り込んで、と一日かかった。

朝はほんとうに忙しくて、ゆっくり食事をするということはなかった。

それが今でも癖になり、朝と昼の食事を一緒にしてしまうこともよくある。

 

夜は義父母も夫も宵っ張りで、自分だけ先に休むこともできず、

昼間少しの間を見つけて子供と横になったりした。

そんな生活の中で、義父母を放って里帰りはできなかった。

 

義兄弟の中に、代わりに看るから里帰りしておいで、と言ってくれる人もいなかった。

頼んで行くこともなかなかできなかった。

初めて里帰りしたのは、やすこさんが嫁いで7年後のことだった。

 

その後もやすこさんは長男と長女は実家に連れて行って

母に直接合わせることができたが、下の子供2人はできなかった。

写真を送ると母は喜んでいた。

しかし、度々は連れて行けなかったから、

上の子供たちでさえ、実家の祖母のことははっきりと覚えていない。

 

子供も小学校6年ぐらいになると、男の子だけに食べる量も増える。

その当時は今のように5キロや10キロ詰めのコメではなく、

30キロもある大きな米の袋を農協から車の入る近所まで運んでもらい、

そこから家までやすこさんが抱えて運んだ。

 

最近ではそんな重いものは持てなくなった。

何かもとうとすると意外と力は出るが、起き抜けや体が痛い時は、

ほんとうに辛いものだ。

今考えても当時はほんとうによくやっていたと思う。

 

 

子供、教育

 

b村は秋祭りがある。

次男が小学校へ上がる頃のことだ。

c地区に生徒がいないため、

d地区からも人を出して行こうということになり、

その時次男にも声がかかった。

一回めは会があった時に行ったが、2回目からは踊りも頼まれた。

次男が「お母さん、もう断っちょいて」と言ったのでそれを伝えに行くと、

それは困ると言われ、結局学校へ入ってから7年間ずっと祭りの踊りに行っていた。

 

朝出るスクールバスに乗り、夜はその戻ってくる便に乗って帰る。

楯をもらったこともある。

しかし、中学校1年の時、義父が亡くなったため祭りに出ることはやめ、

それ以降は踊りに出ることはやめた。

やすこさんも次男が踊りに行くときは毎年見に行った。

その後も2度ほど見に行ったが、それ以降は行っていない。

 

 

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介護

 

時には介護などの辛さでつい

「もう、気に入ったようにしたらえい、もう知らんよ!」と言ったこともあった。

その時に義父が「しらにぁほっとかんせ・・・」と言われてとても後悔した。

また、義父母も娘との電話で話しているうちに愚痴を言う。そういうときには

「それほど気に入らんかったら娘にみてもろうたらえいわい。」

と言ったこともあった。しかし義父母とのやり取りはそれほど気にしないようにしたし、逃げたいと思ったこともなかった。

介護の中で何がどれほど辛かったかなどは、今ではもうあまり覚えていない。

だが、夫の兄弟が電話で何やかやと言ってきたときには

「こがんにしゆうに(こんなに尽くしているのに)悪う言われて、、」と思った。

実際の介護も辛いことはあったが、介護をしていない人に悪く言われるのが何よりも辛いことだったと言う。

辛いことがあっても子供を置いて出て行くことはできなかった。

子供がいたから頑張ってこれたとやす子さんは言う。

 

義父は昔、桶の輪を竹で作る樽屋の仕事をしていたが、やす子さんが結婚してこの家にきた頃にはすでに杖をついて歩くのがやっとで、仕事はしていなかった。

家にずっといたということもあり手がかかることはなかったが、転んだら危ないので心配はした。

トイレは自分で行っていたが、行けなくななるとやす子さんが下の世話をした。

義父母もだんだん体力がなくなり、食が細くなって行く、食べさせたいと思っても、

なかなか食べてはくれない。

夜寒い季節でもゆっくり休めない。

起きてからも寒く、炬燵に入ろうと布団を剥ぐと呼ばれる、ような状態で布団に入る間がなかった。

 

義父がなくなる一年ほど前頃はおむつを帰る時も大変だった。

義父は大きな人だったため、一人では一度で全てが終わらない。

おむつを換えると首が下へ落ちる。首が下へ落ちる。首を上げて内股に乗る。

そうすると今度は胴がおかしい、胴をなんとかしようとすると足を寄せなくてはならない、、、本当にてんてこまいだった。

義父が亡くなったのは朝方だった。その前日に医者が来てくれて

「もう今晩はゆっくり休みなさい、もしものことがあっても何も心配することはないから、今までちゃんとしてきたのだから」と言ってくれた事もあって、いつもは寝る暇もなくほとんど起きていたが、その日の晩はゆっくり寝ることにした。

寒かったので豆炭を入れるアンカを布団に入れて寝た。

朝方、妙に足が痛くなって目が覚めた。

見るとアンカが熱くなりすぎて火傷しかかっている。

「おじいさんの知らせじゃったか」とふと思い、早くに看に行かなくてはと戸を開けると、もう息だけの状態だった。

それから、夜が明けてくれたらいいのにと重いながら、ずっと朝まで看ていた。

昭和59年、享年89歳だった。

 

義母は若い頃から血圧が高かった。

子供の頃から鳥目で夜は外へ出ることはできなかった。

当時は目の手術もできなくて歯がゆい思いをしたらしい。

通ってくれた医者は、先代から夫の家のかかりつけの先生だった。

やす子さんが疲れたときには気を遣ってくれて、疲れに効くという注射をしてくれた事もある良い先生だった。

先生にはきてもらえる時にはほとんど来てもらっていた。

義母は「もう脈が止まりかけた」「血圧が上がりゆう、下がりゆう」と度々言い、

その都度やす子さんが電話をした。

先生が今日は忙しくて行けないと言った時でも、義母は自分が電話で話して確認を取った。直接話すとようなく納得して落ち着くのだ。

義母がどうしても医者に来てもらいたいという時には、義母に言われるままにまた電話をして「どうしてもこう言うけど言う事聞間から先生言うてちょうだい」と言って説得してもらったこともあった。

義母もわからない人ではなかったが、目が見えないための苛立ちもあったのだろう。

 

介護をしていた時も、他人が何か言うと、それを自分のことと思って気分を悪くすることがあり、時々やす子さんも義母と衝突したと言う。

まだ末の子供が学校へ行き始めた頃のことだが、家でぎぼと衝突しているところを子供が見ていた。

食事の時、義母はやす子さんの声が聞こえると食べないが、やす子さんが裏へ回っている間に子供と話しながら機嫌もよくなって食べ始めた。

そんなふうに子供が間を取ってくれたこともある。

昭和61年1月11日の朝のことである。

義母が起き上がろうとしても起き上がれなくなり、やす子さんを呼んで「姉さん妙なことよ、ようおきんなったがや」と言う。

やす子さんが手を貸してみたが、どうしても片一方が横になってしまう。

血圧が高いために中風になったのではと思い、すぐに医者に来てもらった。

やはり中風だった。

12日に県外にいる夫の兄弟に知らせたが、翌13日に義母は84歳で亡くなった。

あっという間のことだった。

いくら衝突をしても、自分の親代わりの人である。

結婚してから24年間、付きっきりで看てきた。

最後には義父母も「世話になったき」と言ってくれた。

自分の親の時はそれほどでもなかったのに、義父母が亡くなった時は、とめどなく涙が流れた。

当時、お年寄りの世話に関して、村からの援助は全くなかった。

役場の人の中には、義父母をそれなりのところに預けて、やす子さんが仕事に行った方がいいと言ってくれる人もいた。それはやす子さん自身十分に分かってはいたが、やはり夫の兄弟たちは「家で看てもらいたい」と言う。

それを振り切って義父母を病院に預けるわけにはいかなかった。

それで、ずっと家で看ていた。

夫の兄弟たちは、それまではいろいろ言っていたが最後には

「ねえさんには世話をかけた」と言ってくれた。

 

表彰

 

義父母を世話していることを役場も知っていたからか、昭和46年に役場から模範嫁表彰の通知があった。

その頃、やす子さんの母は子宮ガンを患っており日赤病院で手術をした。

表彰の通知を受けたと言う連絡をすると、母は喜んでくれた。

現在90歳になる母の姉が、当時病院で母を看てくれていた。

やす子さんの妹が母のそばにおり、その妹が母の最期を看取った。

「それが気掛かりで残っちゅうもんで、やっぱり夢にもしょっちゅう見えてましたもねぇ。やっぱりあれは一つだけ残念に思うけど、どうしようもない」

と今でもやす子さんは思う。

当時も辛かったが、家の外ではそんな顔もできなかった。

 

そして表彰の日、夫も義父母も喜んでくれた。

やす子さんとしては

「そがなおっこうなことにもようばん(そんな大袈裟なことをする必要はない)」

と思っていたが、まあいいことだからと行くことにした。

夏だった。

妹に貰っていた少し薄めの緑色のスーツを着て、バスト電車を乗り継いで、役場の人と一緒に県庁へ行った。

県庁で他の受賞者を見かけたが、声をかわす間はなかった。

自分と同じようにしている人がいるのだなあと思った。

知事から表彰状と急須と湯飲みのセット、風呂敷などを受け取って帰った。

その後テレビにも映り近所の人々が

「表彰して貰うたねぇ」とよく声をかけてくれた。

大変だね、という言葉が支えにもなった。

 

夫が遠くの出稼ぎ先から月に何度か手紙をくれた。

「無理をしないように」と書いてあったのがすごく励みになった、

と当時の新聞記事にもあった。

夫はふだん家にいなくても、家に戻ってきている時はいつも手伝ってくれた。

介護の終盤は夫も病気がちで家にいたので、夫と二人で一緒に介護もした。

「やっぱり二人で力を合わせていきゃあこそねぇ」とやす子さんは言う。

 

もちろん4人の子供たちはやす子さんがとても苦労してきたことや、

模範嫁の表彰を受けたことを知っている。

模範嫁の表彰状はずっと飾っていた。

しかし表彰のことは自分から息子の妻たちには話していないし、言う気もない。

 

仕事

 

義父母の亡くなる数年前から、夫は病気がちになり家にいることが多くなった。

介護も二人でやっていたが、義母が亡くなった昭和61年の3月から

やす子さんは土木の仕事にで初めて現在も続けている。

 

夫の入院

 

夫は病気になり始めた時からE病院にかかっていたこともあって、

ずっとそこで診て貰っていた。

やす子さんは最初の頃はバスでよく行っていた。

必要なものを買おうにも見知った場所ではないためにお店やものを探すのが大変で

遠くまで歩いたこともあった。

 

病気がひどくなり入院するようになると、夫に何かあった時は病院から業者や社長に電話がかかり、そこから携帯電話で山のやす子さんの仕事場に連絡が入るようにした。

夫が1週間ほど高熱が続いたこともあった。

いつも連絡が入るのにその時は連絡が遅く、

病院に行ってみたら夫は言葉もあまり言えない状態になっていた。

もう少し早く来たらよかったと思った。

仕事に行きながら2週間おきに10日ずつ夫のそばに付いていた。

最初は交通の便がよくわからずそれまで行ったことのない、

高知の街へ行くのも怖かったと言う。

 

そうした日々の中で

「お前が良うしてくれたきここまで命があった」

と夫はやす子さんに言った。

 

現在の生活・心境

 

夫は平成9年に62歳で亡くなった。

夫の兄弟は現在G町に住んでいる。

そのため夫が亡くなってから後、道路の清掃、神祭の当番といった部落のこと、

組合への出席、法事の手配、孫のお守りなど、全てを一人でしなくてはならなくなった。

特に法事は亡くなって7年くらいまではお坊さんを自宅に呼んでやってもらった。

10年をすぎるとみんなでお寺に行き読経をしてもらったが、

一人が済んだかと思えば2、3年後には次の人の法事があり、次から次へと続き大変であった。

 

現在子供達はみんな結婚している。

H県に嫁に行った次女は夫の親と同居してもう何年も経つ。

お互いに慣れてくるといろいろあるらしいが、

娘は「お母さんのやるのを見てきちゅうき心配することないよ」と言う。

しかしやす子さんに言えば心配をかけると思い、耐えているのではないかと思う。

他の子供たちは高知市内に住んでいる。

長男と長女に二人づつ子供ができ、月に2回ほど子守にも言っている。

 

これと行った趣味もないし、特にやりたいこともなく「ゆっくりできるかな」と思っていたが、時々孫のお守りに行くことになった。

息子夫婦が働きに出ているためだ。

普段は子供をほいくえんんい預けていて、やす子さんが行けない土、日曜日は息子の妻の職場に来るお守りさんに預けている。

息子夫婦は今アパートに住んでおり、狭いこともあって、

やす子さんがずっと住むわけにはいかない。

自分が動ける間は、部落のこともあるため大変ではあるが、

今の暮らしを続けていきたいと思っている。

 

しかし、もしも自分に何かあったときには、

長男の元へいかなくてはならなくなるだろう。

実娘に看てもらうことは考えていない。

娘も「お母さん、私は世話ができ、家を出ちゅうき。お母さんはお義姉さんに世話にならなあいかんぞね」と言う。

長男の妻がいるのに、嫁に行った娘に世話になるのは、

長男の妻にとってもよくないだろう。

「自分はここにおりたい」と言ったとしてもそうはいかないだろう。

できるだけ自分でやれる間は世話になりたくない。

だから、今は健康にとても気をつかっている。

 

義父母の世話について、今にしてみれば当時はよくやったなあと思う。

疲れていたのに愚痴をこぼす暇もなかった。

無我夢中で、若かったからできたことだと思う。

何とかやってきたが、これからの若い人が自分と同じように介護をしていくのは難しいだろうと思う。

また、息子たちの妻にこうしなさいと言いたいことがあっても、自分の経験から考えたら実際に言うことはない。

「お母さん、お嫁さんには、何ちゃあいらんこと言われんぞね。」

と娘が言ったときにやす子さんは

「言わん、言わん、お母さんは姉さん(息子の嫁のこと)が言うようにあれしていくき、何にも言わんよ」と言った。そしてその通りにしている。

もう自分たちの時代とは違うこともわかっているし、

また自分のしてきた同じ苦労をかけたくないからだ。

 

やす子さんは調子の悪い時はともかく元気な時は、仕事から帰ってきた後でも畑をいじったり、水を撒いたりしている。

じっとしているのが嫌なのだ。

みんなに冗談で言っている。

「家から外に顔をだしゆう間は元気なけどねぇ、見えんなったがいじょう、顔も出さんがゆうた時には鍵して中におるき、見に来いやの」と’(顔が見えなくなったら家の中に入ってきてねの意)

 

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介護保険

 

介護保険は、やす子さんにとってはよくわからない。

のみならず、この新たな負担に頭を悩ませている。

保険料は各個人の収入によって考えられているとはいっても、

利用しようとすれば利用料がかかる。

去年から貰うように年金と、月に何日かある土木の仕事からの収入で生活しているが、仕事がずっとない時は、保険料は大きな負担だ。

今は何とかして頑張らなくてはと思い、仕事をしているが、

いろいろ考えていると本当に嫌になってくる。

「まっこと、どがいなるろうと思うてね」

どうしようもないことだと思いながらも、先のことを考えると不安になる。

 

                           (やす子さんおわり)

 

 

 

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