【模範嫁を訪ねて】昭和21年頃20歳で結婚したみち子さん
昔の結婚生活を伝えたくて…
2000年に「高知女性の会」のメンバーが、
「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから
了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して
聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。
みち子さんの出会いと結婚
みち子さんの夫は終戦前に県内に戻っていたので、
終戦になるとすぐa村に帰ってきた。
夫の家はみち子さんの実家よりも大きな農家で遠い親戚でもあった。
「親戚関係が絶えないようにしたいので、嫁にきてくれないか」
と言われて昭和21年頃結婚した。
当時の結婚でも20歳そこそこでの結婚は早い方だった。
長男の嫁、ということに対する不安はあまりなかった。
「来てくれんか」
「行くかよ(行こうかね)」という感じで、苦労するなど全く考えてなかった。
実家はコメに不自由しており
「嫁にいけば食べるものには不自由しないし、どうにかなるよ」と言われ
「行かな、いくまいか」と思って結婚したという。
当時婚家には80歳くらいの義そふと義父母と義兄弟4人がいた。
一番下の義弟は小学校1年生だった。
みち子さんより1歳年下の義妹もいた。
義父母からは「みち子よ」と名前で呼ばれ、
義兄弟からは「姉さん」と呼ばれていた。
義祖父の最後は義母が看取った。
結婚生活と農家の暮らし
朝起きたらすぐに窯に薪で火をおこした。
そして、ご飯を炊きおかずや味噌汁を作る。
当時はコメがあまり無い時代だったこともあり、
コメに里芋や田芋などのイモをサイコロ大に切って乾燥させたものや
ゆがいた麦を混ぜて炊いて食べていた。
炊き方が悪いとうまく炊けなかったこともある。
また、田芋の皮むきでよく手が痒くなった。
田芋は煮ておかずにもした。
炊き上がったご飯はおひつ桶へ移した。
遅くとも6時半には家族一緒に食べていた。
義母も元気なうちはご飯をよそったり、義妹も味噌汁をついだりしていた。
これが毎朝の台所風景だった。
昭和27年に電気がつくまでは、夜の作業や子供のオムツを帰るといったことも全て
ランプの灯りを使ってしていた。
「灯油はたいてい切らさざった」と言うが、
たまに灯油を切らした時には松を焚いた。
水は谷から竹を伝わせて、池に作った船に入れたものを使った。
火は竈(かま)である。
結婚当時は義兄弟姉妹と義父母と義祖父とみち子さん夫婦の9人家族であった。
そのため毎日鉄の5升釜で米を炊いた。
大きな鉄釜はもちろん、蓋もとても重い。
毎日重い鉄釜を扱ったり、他の農作業からくる負担も重なって
みち子さんは腰を痛めてしまい、その後は夫を起こして釜を降ろしてもらっていた。
また、義理の兄弟や姉妹たちに手伝ってもらいながら
家族が食べる米を搗(つ)いた。
一度に5升搗いたが家族が多いため二日に一度はしなくてはならない大仕事だった。
ガスもなく、台所用や風呂用に薪を取りに行くことも大切な仕事であった。
雪が降る日でも薪を取りに行った。
子供を背負って薪を切ったこともある。
平成10年に家を建て直すまで、風呂は薪でたいていた。
みち子さんはいつも仕舞い風呂だった。
風呂から上がってもすぐに寝ることはできない。
それから皆んなで夜なべ仕事をしていた。
洗濯は、義妹たちの分は義妹たちが、義父母も分は義母がしていたので、
みち子さんは自分たち夫婦の分と子供のオムツだけ洗濯した。
今のような洗濯機はなく、たらいで手で洗っていたので昼までかかった。
もちろん脱水機もない、冬は洗濯物が凍ってバリバリになることもあった。
昔はゴムの手袋もないのでヒビやアカギレができて、
血が出ることも度々あって痛い思いをした。
洗濯機を購入したのはこの地域でも最後の方だった。
「買うてもろうた時にはうれしかった」と当時を振り返る。
働きながら5人の子を出産
昭和23年7月に長男が生まれ、27年に長女、29年に次男、33年に次女、36年に
三男が生まれた。
長男や長女が生まれた時には義母は元気で子守をしてくれたが、
次女の時には体も弱ってきてていたので、子供を背負うことができず、無理のない範囲で次女の遊び相手をしてくれた。
三男誕生の頃には、子守はまったくできない状態で床についていた。
この地域の人々は皆働き者で、本当によく働く。
みち子さんも一生懸命働いた。
身重の体であっても自分が持てる限りの重い荷物を担ぐので
「子供が出りゃあせんろうか」と思うほど腹に力が入り、しんどい思いもした。
陣痛が来るまで働いて、翌朝産まれたこともある。
自宅で出産した。
同じ部落の人たちは産婆さんに取り上げてもらっていたが、
みち子さんの家では産婆さんは雇ってもらえなかった。
義母が元気だった頃は義母が取り上げ、弱ってきてからは、
夫がへその緒を切って子供を洗った。
長男が産まれた時は1ヶ月ほど休ませてもらった。
しかし、長女の時以降は産後すぐに、直接言われるわけではないが、
部屋の外で枕元まで聞こえる大きな声で
「あれしなくては、これしなくては」と義父をはじめ周囲が忙しく働いていたし、
もっと安静にしていなさい、と言ってくれるほともいなかったため、
休んではいられなかった。
産後休み脆くにすることもなくすぐに働き出した。
忙しい時期に出産した時は、出産して10日後には田んぼに入った。
さすがに「背中が張ってづつなかった(辛かった)」と言う。
身体は小柄ながら母乳は出たが、末の子供時は母乳が足りず、米の粉を臼で挽いて
沸かして飲ませた。
その頃には粉ミルクも出回っており、さじで飲ませていたが
現金を出して買わなくてはならない粉ミルクをそんなに飲ませられる余裕はなく、
ほとんど米の粉汁だった。
じっくりと乳を飲ませていると
「こら、もうええぞ、(授乳を)やめんかえ」と義父に言われたこともある。
ゆっくりできたのは寝ている時だけだった。
春には田んぼ、冬には炭焼き、そして毎日の夜なべ仕事
今のように自動車はもちろん、農作業用一輪車(猫車)もない、すべて肩仕事、
田んぼ仕事も耕運機も稲刈り機もない、ぜんぶ人力の時代である。
結婚前の実家で草刈りの手伝い程度の経験しかなく、
みち子さんは百姓仕事をしたことがほとんどなかった。
その上にみち子さんの体は小さかったため、力の入れようもわからず
毎日の生活は骨が折れたという。
夫は「かかあ貰うには貰うたけど、あれは百姓ようするか、どいたち(どんなに言っても)小んまい指じゃ、あれで百姓ようするろうか」
と友人に話したという。
年の近い義妹は、米俵を2〜3抱えて蔵へ入れるほどの力持ちで、
義父に「(みち子さんは米俵を)ようかかん(担げない)」と言われて、
悲しい思い出もある。
できないとはいえ、嫁に来たからにはしなければならない。
みち子さんは「こんなもんじゃろうか」と思いながら作業をしてきた。
当時は草を刈ることもよく知らず、農作業のすべてを夫に習った。
牛馬用の短い草を束ねるのは難しい。
また束ね方が悪ければ、運ぶ時に抜け落ちてバラバラになってしまう。
これも夫に習って上手になった。
結婚した当時は小さな華奢な指だったが、今ではすっかり指の節も太くなった。
春には山菜採りや畦塗りなどの田んぼ作りや畑作りが始まる。
はじめは土地を耕すために馬を飼い、後には牛を飼っていた。
夏は朝の涼しいうちに作業をする。
そのため4時か4時半に起きた。
庭にむしろを敷いて朝食を済ませ、食後すぐに草刈りに行った。
刈った草は畑に入れたり、牛馬の肥料にした。
夏は仕事から戻って昼食をとった後に、みんなで昼寝をする習慣があったが、
みち子さんは癖になるからと自分に言い聞かせ、決して昼寝をしなかった。
台風の時には、倒れた稲を藁で束ねて縛り、起こした。
刈り込む時はそれを外して、刈る。
とてもとても、手間がかかった。
それをすべて素手でやった。
今はヘリコプターで殺虫剤を撒くので楽になったが、
当時は稲に付いた虫を殺すために、油をまいて田に膜を作った。
それから、稲を竹の棒のようなものでたたいて揺すって、虫を落とす。
虫は油をまいた水に落ちて窒息死した。
下肥を運ぶのは大変だった。
畑や田んぼはあちこちに離れている上、平地でもない。
今のように一輪車もない。
天秤棒で木の担桶を両方に下げて運ぶのは、重動労だった。
五人で丸1日かかる作業だった。
秋には天気のいい日に鎌で稲を刈った。
収穫したコメは60キロずつ藁の袋に入れていた。
出産間際の時でもそれを担がなくてはならなかった。
その時は、お腹に力を入れたら子供が飛び出るのではないかと思うほど辛かった。
収穫したコメを旧盆ごろにリヤカーに積み、義父がD町まで直接売りに行っていた。
米の後には麦も作った。
芋の収穫の時は、リレー式で男も女も一緒に同じ量を運んだ。
また、11、12月には掘った芋を、切ってゆがいてカラカラに干し、
藁で編んだ叺3、4袋に入れて貯蔵した。
叺(かます)一袋に約30キロは入った。
その季節は干し芋を毎日作った。
2、3月ごろにそれをご飯に炊き込んで食べた。
冬でも4時半か5時には起きた。
外はまだ暗い。
みち子さんの家の前には墓がある。
夏は草が生え茂って墓も草に埋もれるが、
冬場にポツンと新しい墓が見える時などは寂しかった。
この地域は今でも土葬である。
冬には炭焼きの仕事がった。
炭焼き場は家から2キロほど離れており、そこまで歩いて行った。
「ずっと山の上」からなんども材料の木を伐採し、下に放り落とす。
はじめは白炭を焼いていたが、徐々に黒炭になった。
夜通し火を焚いて、大きい木に火がついたら蒸し焼きにするために
赤土を練り、空気が入らないようにそれで口をふさいだ。
その状態にするまでが大変なのだ、
少しでも口が開いていると燃えてしまい、ただの消し済みになってしまう。
炭焼きは一度火入れをしたら、3日くらいは火を消さないように、
燃やし過ぎないように、寝ずの番をした。
また、毎日様子を見に行った。
そうしながら、次の炭作り用の木の調達にも行った。
みち子さんも今となってはあまり覚えていないが、当時はそんな風にして
炭焼きをしていた。
結婚当初からずっと、こういう仕事をしていた。
家族全員で朝から晩までよく働いていた。
作休みなどは、田植えが済めが一日あった。
あとは虫供養休みが一日。
お盆の時は自由に三日間休んだ。
それ以外は休みなどなかった。
昼間の仕事が終わると夜は寒い時期でも、土間に座って仕事をした。
炭を入れる俵や芋を入れて担う袋のホゴや縄を編んだり、
馬や牛につける道具や農具を作ったり、手入れをしたりした。
みち子さんの夫も道具や農具を作ったが、
とりわけ義父は特に上手だった。
戦後間もない頃で足袋もなく、素足に草履の生活だったから、
その草履も毎日の夜なべ仕事で編んでいた。
冬は暖房といっても囲炉裡しかなく寒かった。
しかし力仕事をする時は体が温まるのか、
雪の降る日でもみち子さんは寒さを感じなかった。
また、戦前の世代や義母は蚕を飼っていて、
糸を紡ぎ布を織っていた。
みち子さんは機織りはしなかったが、布地を買ってきてもらって、
夜や雨の降る日などに、子どもたちのふくや自分の服を縫っていた。
ズボンやモンペの破れも縫った。
子供が学校へ行き始めた頃は、義父に頼んで子供服を買ってもらった。
義母の介護
少しずつ体が弱っていった義母は昭和34年ごろから床に着いた。
そのころの義母の病状は「ゴゾリゴゾリ歩きよっては、ダーツっと走り出して、
誰かに止めてもらわんといかんようになっていた」と言う。
義母が寝込んでからは夜にトイレの介助のために、度々起こされた。
トイレは母屋から離れた庭の隅にあるため、
義母に起こされると、みち子さんは腰を痛めていたので
「お父さん、また起きてや」と夫を起こし手伝ってもらった。
晩年の4〜5年間、義母は自分で寝返りも打てない状態であり、
床擦れができないように再々気にかけて寝返りをさせた。
床擦れの予防法を地域巡回の保健婦に教わることもあった。
この頃から義母はオムツを使い始めた。
義母に食欲がない時などは卵入りのおかゆやおじやを食べさせたが、
基本的には義父と同じものを出していた。
義母はお酒が大好きで、2人ともよく晩酌をしていた。
義母は昭和44年の年末に72歳でなくなった。
その時義父は75歳だった。
この6ヶ月後に義父が倒れた。
表彰と義父の病気
模範嫁としてみち子さんを推薦したのは、
よく義母を見に来てくれていた保健婦さであった。
受賞のことを教えてくれたのもこの保健婦さんだ。
みち子さんは受賞を知った時
「私らあみたいな人に、こんなもん貰われんにね」と思った。
しかし保健婦が
「頑張ったんじゃけん、村からこうしてくれたがやき、そんな心配はせんちかまん」
と言ってくれた。また、夫は
「よかったねえ、おばあの世話してくれたけんねえ」と言ってくれた。
近所の人たちにも
「まあ、みち子さん、骨折った甲斐があったねえ、ようやったけんねえ」
と言われ、嬉しかったと言う。
それが励みにもなった。
義父も実家の家族も喜んでくれた。
表彰式に着ていく服は作ってもらった。
「表彰式に行かないかんに、着るもんがない。困ったねえ」と言っていると
夫が「そりゃあ、こしらえなあいかんじゃいか」と言い、
c市で生地を買って服を新調してくれたのだ。
村役場か民生委員のどちらかと一緒に、みち子さんは表彰式の行われる県庁に行った。
往復費用は役場の方で出してくれた。
表彰の記念品として、急須とお盆、手紙入れを大きな風呂敷に包んでもらった。
うれしかった。
今でも急須もお盆も大切に使っており、表彰状は額に入れて飾ってある。
模範嫁表彰を受けて、老人洋上セミナーに招待された。
義父母とも亡くなった数年後に、老人クラブの人と一緒に3泊4日で東京方面へ
旅行に出かけた。
みち子さんにとって、結婚後初めて、子供、夫とも離れての旅行であった。
旅行中に圏内の模範嫁たちと親を世話したことなどをお互いに話しああった。
みち子さんはそこで知り合った人といまだに手紙のやり取りをして、
長い付き合いをしている。
義父は外出先のa市で具合が悪くなった。
同行していたものが、診察を受けてから帰ろうと言ったにも関わらず、
そのまま村に帰ってきた。
義父は寝付くことはなく、
なくなるまでゆっくりであればなんとか一人で歩くことができた。
詳しい病名などはわからない。
義父はこの地域の中でもとりわけ働き者の仕事師だったので、
意識がしっかりしている分身体の自由がきかなくなってからは、
随分とやけを言ってはみち子さんたちを困らせた。
口が達者で何かにつけて注文が多く、いろいろなことに対して文句を言った。
しかし、仕事はできなくても歩くことはできたため、
義父はオムツを使うことはなかった。
義父は血圧が高かったこともあって、倒れて亡くなった。
お金のことは蚊帳の外
お金の管理は全て義父がしていた。
何か必要なものがあると、その都度に義父に頼んでお金を出してもらった。
「ジイさんはにぎり(ケチ)じゃったけん。」
義父は部落でも水らしいほどしわい(執着を持った)人だった、
子供の学校の費用もすぐには出してくれなかった。
家計は義父が倒れてしばらくして夫が預かったようだが、
農作業以外の服を買ってもらうこともなかった。
農作業着は傷みが早い。
重いものを担いで服が擦り切れたり、虫除け用の油でズボンが破れたりするからだ。
そういった事情もあって、農作業用の服だけは度々買ってくれた。
辛い時には実家に帰りたいと思ったが、子供が可哀想と思い止まった。
子供が小さい頃は盆や正月には子供を連れて里帰りさせてもらった。
「今度実家に行ったら(義父母や義兄弟との関係などもろもろのことを)
親に話そう」と思うのだが、実際に話したことは一度もなかった。
話せば親に心配をかけてしまうからだ。
みち子さんにとって一番のささえは夫だが、つらい胸の内は夫にも話さなかった。
今になると
「お父さん(夫)にでも話したらよかったねえ」
と思うが当時は話すことはできなかった。
夫は里帰りの時小遣いを持たせてくれた。
当時みち子さんは家の金を工面して渡してくれているのだと思っていたが、
実は里帰りのためにわざわざ夫が友人から借りて持たせてくれていたことを、
ずいぶん後になって知った。
どうやって借金を返したのかは今でも不思議だ。
「色々あったねえ、まあ、みんなそんなことがあるがよ、私ばっかしじゃあるかよ」
とみち子さんは言う。
たどりついた今の暮らしについて
介護保険サービスを利用してもしなくても、対象者は全員保険料を払わないといけない。利用する時にまた利用料を払う。このことについて
「妙におかしいねえ、かかってから払うてもよさそうやにねえ」とみち子さんは思う。
老後、自分自身に介護が必要になった時、自宅で介護してもらいたいかどうか、
みち子さんはわからないと思っている。
息子の妻は仕事に出ている。
自宅で介護といっても、いつどうなるかわからない。
ただ、元気でいたいと思っている。
みち子さんが結婚して以来初めて夫と一緒に旅行したのは、
昭和56年にf県に嫁入りした娘の結婚式であった。
娘は学校を出た後g県で就職したが、その後f県に会社が移り
そこで相手の男性と出会った。
娘が遠くへ行くことになるため、夫は娘の結婚を反対したが、
本人が結婚したいというのでしかたがない。
結婚式が終わり高知へ帰る時に夫は泣いていた。
その泣き顔をみち子さんは今でも忘れられないと言う。
娘の夫は優しくていいひとで、娘は義父母からも可愛がられて幸せだという。
離れているが電話で声が聞けるし、娘が幸せに暮らしているならいいと、
みち子さんは思っている。
その後夫が亡くなり、みち子さんは今別棟に住む息子夫婦や孫たちと同じ敷地内に暮らしていて、国民年金とわずかなアルバイト料で生活している。
約6年前から古い納屋を改造して子供世帯とは別の台所を作り、
「おばあさんは一人で食べるきね」と自炊を始めた。
若い者は若い者の生活がある。
「おばあさんは居られん」と思い自分から食事を別にした。
ある意味ではそのほうが気楽だとみち子さんは言う。
朝、この部落7軒に新聞配達をし、
帰ってきてお茶を沸かして、仏様を拝んで
それから、食事をして洗濯をする。
テレビドラマをみて、
畑へ行って野菜を作る、
のが今のみちこさんの日課である。