Chico style

a day in my life

【高知ランチ】「カフェ チボッラ」いの町大国さまの隣

ランチに誘われて行ってきました。

場所はいの大国さまの東側にある

「カフェ Cipolla(チボッラ)」さんです

 

高知市の西いの町は、いの大国さまと呼ばれて親しまれている椙本神社 が有名です。

商売繁盛、家内安全、縁結びに後利益のある神社で鎌倉時代に作られたというお社を見れば後利益が間違いないと確信できる神々さですよ。

 

 

 

 

f:id:chizukoike:20180521141939j:image

今日の日替わりランチは

サバ味噌煮

新タマネギのポン酢かけ

ナスの煮びたし

厚焼き玉子

キュウリの酢のもの

ご飯にお味噌汁

デザートにイチゴ 

そして、コーヒー付きで800円です

 

どれもこれも、丁寧においしく作られていました、ありがたいです。

たとえが変かもしれないけど、、、

家に料理上手なお手伝いさんがいて、朝ごはん作ってくれていた、

みたいなかんじでした。

 

毎日こういう朝ごはんを食べてたら健康的でいいですね。

ダイエットにもなりそうな・・・

 

そうなんです、家でご飯を作ると、もっとボリュームがあり過ぎてしまいます。

キュウリの酢のものの量もこんなに上品じゃないし、

玉子焼きだって4個焼いて全部食べてしまいます。

 

だから、ランチに来たほうがダイエットになりそうな気がします。

あんかけ的には量が少なくて、このあとモスバーガーへ行きました。

別のお客様が帰りしなに、残してごめんなさい、みたいなこと言っていたけど、

このランチで量が多い、と言う人がいるなんて・・・

 

朝はモーニングもやっています

7:30~11:00まで 500円

f:id:chizukoike:20180521141956j:image

 

モーニングは

スープ

サラダ手作りドレッシングかけ

ヨーグルト(手作りっぽい)

フルーツ、トースト、茹で卵、コーヒー付きです。

 

お店も新しくて、広すぎずで、居心地がいいです。

 

f:id:chizukoike:20180521142016j:image

なんでも、四万十市のご夫婦が退職後に始めたとか、、、

可愛いお店、がんばってほしいです。

 

 

f:id:chizukoike:20180521142039j:image

 

「週間新潮」「週刊文春」「暮らしの手帳」がありました。

週一で通いたくなりました。

 

 

f:id:chizukoike:20180521142054j:image

 

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

 

家事のシンプル化・・「仕組みづくり」5つのステップ

新聞も好きですが、雑誌とか週刊誌も大好きで、

定期的にTSUTAYAさんへ通っています。

今回読ませていただいたのは

「一汁一菜でよいという提案」

「できるだけがんばらないひとりたび」

婦人公論

そして買わせていただいたのは「日経 おとなのOFF」

f:id:chizukoike:20180520150629j:image

 

 

家事のシンプル化・・・したい!

で、このての本をよく読みます、読めば少しでも頭に残って動くかなとおもって。

本を読むより体を動かしたほうが、片付くのではないかと思いますが、

家事について、頭の中がごちゃごちゃした状態にあり、

家事のシンプル化、仕組みづくり、のフレーズにひかれました!

そうなんです、仕組みづくりをしたいんです。

毎回、どうするか、と決めてやるんでなく、こうする、と決めときたい。

 

いつもバタバタとこまめに動いているのが美徳とされてきた面も

ありますが、ただ動いているだけではなにも解決されないなぁ、と

認識している今日この頃です。

 

 

 

婦人公論5/22号 「ラク家事」で自分時間を手に入れる 

老いを見据えた「仕組みづくり」5つのステップ  阿部詢子

 

1⃣ 5年後、10年後の暮らしをイメージしてみる

 

朝起きてコーヒーを飲んで、ブログを書いて、ランチを食べて、夕方の散歩に行って、

夜ごはん食べて、晩酌にビールを1本飲んで寝る。

 

2⃣ 嫌いな家事、面倒な家事のリストアップ

 

拭き掃除、ガラス磨き、カーテンの洗濯、換気扇の掃除、フィルターの取り換え

 

3⃣ てきとうにやる。「やること」「やらないこと」を決める

 

部屋の模様替えはしない、3食はつくる

 

4⃣ ”自分なりの仕組みを作って実践してみる

 

数を減らす、ダウンサイジングを月一で見直す、月一ですることを決める

 

5⃣ 実践してみて効果があるかないか、常に仕組みを見直す

 

やってみたことをブログにかく、書いて見直す

 

14のミクロなアイデア

 

1、ちまちま掃除を習慣にする

2、床にものが少ないほど掃除がラク

3、ブラシやほうきをすぐ手に取れる場所に配置

4、道具にはデザイン性と耐久性にこだわる

5、汚れの元凶、フタやカバーは外して使う

6、洗濯を効率化する

7、着替えは1か所でおこなう

8、キッチンには余計なものを置かず、動線をシンプルに

9、水滴を残さなければ水垢もカビも発生しない

10、キッチン家電を見直す

11、調味料や調理道具は使う時だけだす

12、手の届く所に収納

13、食材の無駄を防ぐには”見える化”する

14、全ての物の数を減らす、サイズを小さくする

 

 

 

 

婦人公論という雑誌を50年以上読んでいます

 

中学生のときに、親とかおばさんが読んでいた「婦人公論」を読んでみると、

大人の世界が垣間見れて面白かったです。

特に気に入っていたのは「人生相談」のページでした。

 

・お金持ちのお嬢さんが、何かのきっかけでやくざと付き合い、入れ墨を入れられて、

なんとかかんとか・・・

・結婚した家で姑と小姑に奴隷のようにこき使われて、なんとかかんとか・・・

・旦那さんが浮気者で他所に子供を作って、なんとかかんとか・・・

 

昔は家庭の中で辛い思いのお嫁さんの投稿とか多かったです、

雑誌は時代を反映しているので、今は、シニア世代の生活術的な企画が多いです。

 

ということで、婦人公論の家事のシンプル化という記事を読んで、

半分家事がシンプル化したような気になってきました!

 

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

【ランチジャー弁当】作ったのは玉子焼きだけのサバ味噌弁当

玉子がきれいに混ざらない、という悩みをかかえているあんかけです~

 今日のランチジャー弁当は

玉子焼きだけ作って、

 

女神のごぼう茶

f:id:chizukoike:20180430134910j:image

 

味噌汁入れろカップには・・・サバ缶味噌を入れて新玉ねぎをスライスして青ネギを

おかずカップには・・・・・・玉子焼きを作って、冷凍のオクラとウインナー、

              色取りに、トマトとかまぼこで誤魔化す

ご飯カップには・・・・・・・梅干しと黒ゴマ

 

とても簡単にランチジャー弁当を作りました!!

 

ところで・・・

 85歳の料理家「小林まさる」さんが気になる☆彡

小林まさみとまさるのさわやかシニアごはん

小林まさみとまさるのさわやかシニアごはん

 

 

小林まさるさん85歳!

 

f:id:chizukoike:20180516212407j:image

 

 

定年後に息子が結婚し、その妻のまさみさんとの3人暮らしがはじまった。

(57歳のときに病弱だった奥さんを亡くしている)

 

転機は70歳のとき、料理研究家になったまさみさんが、本を出版することになり、100品の撮影のためにてんてこ舞いしている。

見かねて「洗い物ぐらい、俺がやってやるよ」と声を掛けたことがきっかけで、嫁のアシスタントをすることになる。

 

76歳のときに、まさみさんの元に来ている出版社の人に声を掛けられ、雑誌の連載を担当することに。

2年ほどで『レシピもたまったかばら、本を出してみないか』と言われて初出版。

 

「サバ缶なんて、手始めにチャレンジするのにぴったりの食材だよ。もともと火が通てるから、火加減をきにしなくていいし、缶の汁はだしとして使えるしね。やったことないからできないって言ってないで、やってみたらいいって。料理を作れてわるいことはなんにもない。頭も動かす、体も動かす、空いた時間を埋めるには一番いいよ。しかも料理を作ってあげれば、周りにも喜ばれるからね。まごまごしてたら後に棺桶が待ってる年齢だもの、迷ってる暇なんてないよ。」

 

説得力ある!!

 

人数多い、暇でお金のある定年後のおじさんたちには土井善晴より

説得力あるぜよ!!

 

小林まさる【おススメサバ缶レシピ】

 

◎サバ味噌タケノコ煮

作り方:

①フライパンにサラダ油を熱して、タケノコを入れ、全体に油が回るまで中火で2分ほど炒める。

②酒、サバ味噌煮缶を汁ごと加えて粗く崩す。落し蓋をし、まぜながら2分煮る。

③色ごりに絹さやを加え、火が通るまで煮る。

 

うん、やってみよう🌷

  

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

【模範嫁を探して】たか子さんの結婚と介護 第2章

f:id:chizukoike:20180515193647p:plain

 

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 

 

 

たか子さんのワンオペ育児

 

当時、夫は毎日お酒を飲んで帰って来た。

たか子さんもお酒は好きだったが、お酒を飲む暇はなかった。

「どうして私ばかりが」と情けなかった。

 

感傷から「つれづれなるままに」とノートの表紙に書いて、

悲しかったこと、つらかったこと、楽しかったことなどを、時折綴っていた。

「それ、つづけたらええわ、」と夫は言ったが、

夜は眠くて大変になり、少しの間しか書けなかった。

 

義父の死後、この介護日記を思い出すままに書いてみようと思ったことがあった。

その後、有吉佐和子の「恍惚の人」が評判になったので読んだが、

「こんな生やさしいものではないのに」と思った。

文才があるのとないのでは、こんなに違うものかと思ったものだ。

 

義父のことでつらかったのは、義父がわがままを言って

「もう看てもらわん」と言った時である。

一度、あんまりつらくて実家に帰ったことがあった。

でも、近所の手前もあるし、自分の責任もあると思って戻ってきたが、

他に看てくれる人もいないというのに

「戻って来んでもええ」と怒られた時には、言いようのない寂しさにおそわれた。

「ぐっと我慢の子をせんといかん時もあるんじゃなあ」と思った。

 

「夫は飲みさかっちゅうし(飲んでばかりいるし)、義父はやけを言うし、

そんな時はつらかったです。」とたか子さんはしみじみと言う。

 

夫はなぜ飲んで帰るのか。

家に帰っても化粧の一つするでもなく、つぎはぎのもんぺをはいている妻より、

飲みに行けばいれいな人もいるからだろう。

お酒の好きな仲間と会えば飲みに行った。

 

 

 

 

夫は炊事も介護もしない。

子供の風呂も一度もいれたことがない。

 

2人目の女の子が生まれた時は、子供を自分ひとりで風呂に入れるのに困った。

まず上の子を風呂に入れて、続いてもう一人も、というと、

自分はろくに洗うこともできない。

 

あがってからも、まずバスタオルで下の子をくるんでおいて、

大急ぎで上の子の服を着せる、という具合である。

冬などは自分が裸のままで子供の世話をしているうちに寒くなってしまう。

 

一度だけ、母屋とは離れた場所にある風呂場で

「なんぼ呼んでも来てくれん、子供の着物ばあ着せてくれればいいのに」

と夫に言ったことから、義父母に爆弾をおとされたことがあった。

2人とももの凄く怒って、

「男を使うな!」と怒鳴ったので、とたんに縮みあがった。

 

それからは家事に関しては一切夫に言うこともなく、

夫を頼りにすることもなくなった。

当時、義母は70代で、子守りをしてくれて元気ではあっても、

子供を風呂に入れることはできなかった。

 

夫に当たることはたまにあったが、夫に話せるようになったのは楽になってからだ。

本当につらい時には愚痴もこぼせなかった。

 

「今思い出したら、涙の出るときもあるけど、本当に苦しかった当時は涙も出ないし、誰にも話せるものではなかったです」とたか子さんは言う。

 

「父と妻の間に挟まれて、苦労しました。どちらの側にも立たないように注意していました」と夫は言う。

「いまではお客(宴席)のときに、冗談で『私は騙された』と言うんですけどね」

とたか子さんは笑う。

 

たか子さんと嫁の立場

 

昭和36年に長男が生まれたときには、出産の直前まで炎天下で草取りをした。

そのせいか長男は小学校入学前1年間、保育園に入ったが、入園後1週間もたたないうちに紫斑病になり、洗面器でうけるほど鼻血を出し、入退院の繰り返しだった。

 

子供が学校に入ったころ入学式だけは行ったが、他の行事には行けなかった。

子供はまだ小さい上に、おむつの洗濯,三度の炊事、義父にはお粥、

とやることはいくらでもあった。

 

参観日は夫がほとんど行った。

そんな中でも学校の節目の時には、子供がかわいそうだからと、少しの時間を見計らって行くようにした。

 

介護に忙しくてろくに子供をみてやれなかった。

それなのに、道をそれずに育ってくれてありがたいことだと思っている。

 

子供たちが昨年からお年玉をくれるようになった。

「母さん働いているからえい(必要ない)」と言うのに

「何か買いや」と言う。嫁も優しい。

 

今のところ、家族みんな仲が良い。

たか子さんは

「よそ様の娘さんをもろうたに、嫁にいやな思いは絶対させたらいえけん」と言う。

そんなたか子さんに夫は「ちょっと気を使いすぎ、大事にし過ぎやないか」と言うが、

「私は嫁に嫌な思いをさせたらいかんと肝に銘じて、できることはしているんです」

と言う。

 

この辺りでは男が炊事をするとか、子育てを手伝うなどというのは聞いたことがない。すべては嫁の仕事だった。

 

晩年は寝かせてくれたが、義父が寝付いた当初何年かは、夜、熟睡したことがなかった。疲れたなあと思うことはあっても、翌日に疲れが残ることはなかった。

若かったからこそできたことであった。(たか子さんは18歳で結婚していた)

 

義父が亡くなる前に最後に夫の兄弟が集まったときに、義父はもうお粥も食べられない状態だったから、ミルクを用意した。

義兄が義父にミルクを飲まそうと持っていったら、

「毒が入っちゅうき飲まん」と言われて、義兄は傷ついて怒った。

「もう、おらあ、なんぼ自分の親でもそんなこと言うて知らんぞ、放ってきたぞ」

と言いながら炊事場へ帰って来た。

 

たか子さんが「お義父さん、これ飲まにゃ死ぬるぜよ、私がこしらえたんじゃ」

と言うと、

「ああ、ねえがこしらえたんなら飲む」と言ってくれた。

「義父の死に際に、初めて私は救われた、と思いました。」

とたか子さんは言う。

 

義父の葬式の時、義兄の妻が「どうされた、こうされた、それで出て行ったんじゃ」と言うと、夫は「年取ったけん、よけいむつかしかったわ」と言っていた。

葬式の後、義兄が「私らじゃったらよう看れんかった。よう看てくれた」と言ってくれたので、夫も義兄も大変なことは分かってくれたんだと思った。

 

 

 

 

実母と義兄の妻は明治の終わりの生まれて、おない年である。

子供を預けに行ったとき、実の両親は

「4人兄弟の末息子に嫁にやったのにこんなはずではなかった」と言った。

 

義父が亡くなって、しばらくはまだ死んだとは思えなかった。

義父がいないということに慣れていないので、買い物にでても、昼には

「ご飯を作らんといかん」と思うようなことがよくあった。

洗濯ものも減り、夜も起きなくていい、

一時期少し抜けたような、ボーっとしていたことがあった。

 

たか子さんの表彰

 

模範嫁は役場の推薦だったと思う。

というのも、当時役場から寝たきり老人にベッドを貸してくらたことがあったからだ。

父が寝込んだ最初のころに、月に一度くらいの割合でヘルパーを派遣すると言ってくれたが、自分でできると断ったことがある。

それらのことでやりとりがあったので、現場を見た役場の人からの推薦であっただろうと思っている。

 

義父は、受賞の時に

「おらが寝たおかげで表彰もろた」と言っていた。

表彰状は夫が壁にかけてくれた。

 

表彰式へは、たか子さんは行きたくないと言ったが、夫が

「表彰してくれるというのやき、いって来い、表彰なんてありがたいことだ」

と言って勧めてくれた。

「夫は男やき、ありがたいなどと言うことはなんちゃあなかったが、そうは思ってくれてました。後に私の母が寝付いた時、

『俺の親を看てもろうたんやき、お前の親もできることは何でもやってやれ、何ちゃあ気兼ねすることはないき』と言ってくれました」と言う。

 

そんな夫でも

「(妻が表彰を受けた当時は)苦労かけたとは思っていたけど、介護したくらいで表彰うけるとはピンときませんでした。当時はそんなもんでした。今は感謝しています」

と言う。

当日は夫が義父を看てくれた。

表彰式は県の正庁ホールで行われた。

みんなを代表して謝辞を述べよと言われて、読んだ覚えがある。

 

謝辞は、夫は自分が書いたと言うが、たか子さんも自分で書いたと記憶している。

結婚して初めてスーツを作ってもらったが、靴までは買えず、ペタンコの古いサンダルを履いてホールのリノリウムの床で滑りそうになったのをお覚えている。

 

本当のことをいうと、表彰はプレッシャーがかかり、重荷になった。

その頃は現金収入がなかった時だったから

「紙きれの表彰より、お金をもらったら良かった」と冗談に言ったものだった。

 

実際に表彰されても一銭になるわけではなかった。

たか子さんの時代には、介護したからといって得になることはなにもなかった。

近所の人は新聞を見て、「えらかった」と言ってくれた。

 

義父が死んで何年かして、離婚した夫の姉が、老人ホームに入るという約束で帰って来た。一年ほど家にいて、ホームに入りガンでなくなった。

仕事をしながらホームと市内にある病院に通っていた気丈な義姉であった。

闘病の最後に口にチューブを入れられた時、

「私のものはみんなたか子さんにあげる」と紙に書いて見せた。

背中をさすっていたら、

「たか子さんは休め、お前がもめ」と紙に書いて夫に示す。

夫はそれを見て苦笑いし、たか子さんと交代して背中をさすった。

病院の帰りに

「あんな気丈なお姉さんがあんなかわいらしいこと言うたら、長くはないで」

と話ながら家路についたが、3日後に亡くなった。

 

「がい(気丈)な人はがいでおらんと、かわいらしゅうなったら先が短い」

としみじみと語る。

たか子さんは、義父母だけでなく、義姉も自分の実母も介護した。

昨年は一番上の義兄も亡くなった。

 

昭和51年から、寮母の仕事を始めた。

義父の介護が終わったばかりの昭和47年に誘いを受けたが、

その時はとても応募できなかった。

2度目に声を掛けられた時に、子供の教育費もいることだし、固い仕事に就くのが一番だと思い、就職した。

寮母の仕事は泊りもあるので、夫と相談した。

結果的には勤めにでて良かったと思っている。

「今は仕事から帰って、夜は好きな酒を飲んでバタンキュー、幸せです」

とたか子さんは言う。

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

 

 

 

 

【模範嫁を訪ねて】たか子さんの結婚と介護 第1章

昔の結婚生活を伝えたくて…

 

f:id:chizukoike:20180515193647p:plain

 

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

(筆者もメンバーの一人でした)

 

 

 

たか子さんの出会い

 

県境に近く、急な坂を車で15分ほど上がった標高400メートルにあるたか子さんの家は、正面に連峰を望み、広々とした光景を我がものにする絶景の地にある。

 

昭和35年、高校を出て農協に事務員として勤務していた。

そこに肥料などを買いに出入りしていた夫に見初められ、その年の12月、18歳で結婚。

 

夫は初め「高知の大丸百貨店に勤めていて、ここにはおらんのじゃ」と言っていた。

しかし、式の前に用意した嫁入りダンスなどは、夫の指示で山の上にある夫の実家に運び込まれていた。

普通なら、それだけで市内に住んでいるはずはないと気が付きそうなものだが、

うぶな18歳では疑問も持たず、市内へいくものだと思っていた。

実際には、夫は両親が高齢のため地元に帰り、親の後を継いで百姓をしていた。

4人兄弟の末っ子である。

 

たか子さんの結婚生活

 

結婚の日は雪がたくさん降った。

春先まで雪が残るから、雪が溶けるまではそれほど仕事はないが、

春になったらお茶を摘み、蚕を飼い、天気が良い日には畑に出て農作業をした。

 

雪の季節以外は全く休みなく仕事があった。

食事の用意はご飯を竈(かまど)で、杉紫や杉の枯れたのを集めて火をつけ、

お湯を沸かしたり、ご飯を炊いたりした。

 

水は山の水を引いていた。

ボンベのついたプロパンが最初に入ったのは昭和42年~3年頃だろうか。

便利になったと感じた。

 

洗濯は空色の粗悪な固形石鹸を使って、水で洗った。

洗濯板は、良く使い込んであるので波がなくなって平たくなっていた。

手袋もなく、冬はひびとあかぎれで指はひどくなった。

 

標高が高いこの辺りでは、冬になると洗濯ものが凍って乾かないので、天気の悪い日は室内で干していた。

最初に洗濯機が来たのは、昭和44~5年くらいだろうか。

ローラーを手で回して絞るものだか、それが来た時には本当に助かったと思った。

それでも、便の始末などはやはり手で洗わなければならなかった。

子供は大便が毎日出るが、大人は毎日出るわけではないので、大便のおむつの洗濯を毎日するわけではなかった。

 

結婚当初、まず義母に

「ここは前から朝は早ようて夜も早い、と相場が決まっている」と言い渡された。

「嫁は看てもらうためにもらうんじゃけ、その辺を嫁に言うとかないかん」と義母は下に住むおばあさんに言われたという。

 

子どもが生まれた時、夜泣きが激しくて、朝はいつも眠かった。

しかし、真冬であっても6時半になればさっさと迎えに来て

「ねえや、もう起きんか、7時やか」と起こされた。

初めのうちは声をかけられて飛び起きた。

 

その当時としては、義母が特に厳しいというわけではなかった。

近所で嫁の悪口を言うわけでなく、代用教員をしただけのことはある賢い人で、

若い嫁が3人いてもかなわないほどの出来る人だった。

 

何も分からない18~9歳の孫のような娘を相手に苦労したことだろう。

実際、たか子さんは義母の孫と同じ年であった。

夫は4人兄弟の末っ子だから、夫の姉の子供が夫と同じ年であり、

兄の子供がたか子さんと同じ年だった。

「今考えたら孫にかかるようなもんで、未熟だから怒ったんでしょうねぇ」と言う。

 

孫のような嫁と暮らすことになったのは、兄たちが順に出て行ったからだ。

一時は長男が一緒にくらしていたこともあったのだが、兄嫁との関係と

義夫の介護と、そして子供の教育を考えて出て行ったと後から聞いた。

 

 

 

たか子さんの仕事

 

たか子さんは結婚するまで農業をしたことがない。

結婚前は「農業するにようばん(農業をする必要はない)」という約束であったけど、

農作業はもちろん、「嫁が来たから人手はある」ということで、

それまではしていなかった蚕を飼うことになった。

 

義母はたか子さんを「ねえ」と呼んだ。

「ねえが来たから、ちっとは蚕でも飼おうか」ということになった。

初めは蚕を見たこともなく、気持ちが悪かった。

「おばあちゃんは何にもわからん嫁に一から教えこんで難儀なことだったろう」

とたか子さんは当時を振り返る。

 

5時ごろ起きて、義父の顔を洗っておむつを替え、ご飯を食べさせる事から

1日が始まった。

洗濯をすると7時、

それから子供たちと自分たち夫婦の食事をして、7時半には畑に出た。

蚕の季節は夫と2人で蚕の餌になる桑を1日4回、前の庭で取って来なくてはならない。

蚕は春、夏、秋と年3回飼った。

春は特に多く飼った。

蚕は最後の3日くらいはたくさん食べさせて太らせなくてはいけないから、

1日中餌をやる。

この間は、蚕の世話で寝る暇がないほどだった。

少しずつ蚕を増やしていって、餌が足りなくなり、よその家の桑を買ってきた。

蚕は大事な現金の収入源だった。

普段は自作のジャガイモとおジャコのおかずであっても、繭が売れたら、

「カツオでも、買おうか」という余裕ができた。

値はいい時で1キロ2000円くらいだった。

しかし、勤めに出るようになってからは、

蚕の仕事はあまりに大変なのでやめた。

 

 

 

たか子さんの介護

 

長男が紫斑病にかかったころ、義父は寝たきり状態だった。

元々は顔にヘルペスからの傷ができて病気には注意深くなっていた。

一度寝込んで、「そろそろ起きないかんね」と言っても起きずにおって、

それから寝付いてしまったと言う。

 

一時は長男も具合が悪いし、義父を近くの診療所に入院させることになった。

あまり丈夫でない義母もいたし、子供も小さいから、

昼はたか子さんが、夜は夫と夫の兄が義父を看るという約束であった。

 

しかし、入院したその夜に義父から

「痛いから先生を起こしてくれ、薬をもらってくれ」と言っても

「先生は起きてくれん」と言って夫たちは酒ばかり飲んでいたという。

 

翌日たか子さんが病室に行くと

「あれらは酒ばかり飲んで面倒を見てくれんき、今晩からは家に帰っては困る」

ということで、たか子さんが夜も昼も付き添いをしなければならなくなった。

 

病室を2つ借り、子供2人を連れて病院に泊まり込んで義父を看ることになった。

家は夫と義母に任せていた。

そんな暮らしが1カ月近くなったころ、

義母の足が立たなくなったという知らせが来た。

 

これはもう、自分が義父母を看るしかないと覚悟して、実家に2人の子供を預けることにした。

それから義母を背負って入院させ、泊まりこんで義父母の面倒を見ることに専念した。

60日位入院して義父母とも退院できた。

 

その後、義母は一時自分のことは出来るようになった。

義母は気難しいところがあっても、賢い人だったから、不満を表面に出すことはない。

 

しかし時には孫と喧嘩をしたり、テレビのチャンネルを争ったりすることもあった。

当時こまどり姉妹の全盛時代で義父母はそれを見たがり、

子供たちはマンガを見たがった。

そんな時にはきつい声で、テレビの前から子供たちを追い払った。

そんなふうに短気なところもあった。

 

たか子さんは、テレビの前から追い出された子供たちが台所にいる自分にまとわりつくので、「子供がマンガを見てくれると、炊事がはかどるのに」と思った。

 

以来義父は7年間寝たきりになり、義母は途中で亡くなったが、

2人とも孫の小学校入学を見ることができた。

 

昭和38年には長女が生まれた。

大人と子供で3人分のおむつが必要な年であった。

おむつに必要な浴衣や木綿類は一切すてずに取って置き

小さなものは30センチ四方に切って、お尻を拭くのに使った。

 

仕事がない時や手が空いた時には、木綿類を小さく切って箱にしまっておいた。

結婚した当時は、冬はネルの着物を着て腰巻をしていたが、それらは全部ほどいておむつに化けてしまった。

 

風呂は、その頃は入浴車もなかったし、清拭だけだった。

義父の下の世話の時に,性器の周りも木綿の布でさわって痛くない程度の温度の熱いお湯で、のばしながら拭いていく。

きれいに拭いていたら、性器が大きくなる。

 

まだ、結婚してすぐの若い頃だし、義父に男性性を見るのはいやだった。

一度だけ夫に「私、気持ち悪いき、お義父さんにいうといて」と言ったことがある。

男性の下の世話をするということは、そういうことも含む。

今なら何ともないが、若い時は一番嫌だった。

 

「そんなこと、母にも誰にも一切いえんかった。とてもではないが、他人には口にだせなかったです。嫁のつらさですね。」

そうかといって始末をいい加減にすればすぐにお尻が荒れてしまう。

 

「お婆さんの時は下の世話も何ともなかったが、じいさんは嫌だったです」

「じいさんは(男の性は)雀100まで、と言うでしょう、たとえ嫁でも若い女ですよね。でもばあさんとは嫁と姑の一対一(女同士との意)ですから」

 

拭き上げた後、シッカロールをあまりたくさんつけるとよけい荒れてしまう。

そこで安物でもよいから固形のおしろいを買って来てつけた。

そのおかげか、股ずれも床ずれもしなくてすんだ。

大腿部の端が荒れてきたので、それからおしろいにしたのだが、誰に聞いたのかは思い出せない。今のように介護情報がある時代ではないので、どこかで聞いたのだろう。

 

義父はおしゃれであった。

「ねえよ、寝ていると上からほこりが落ちてくる。サングラスを買うてこい」と言う。

「何ちゃ、ほこりはかからん」と言うと

「ねてみなあ、わからん」と言うので「はい」ということになる。

 

「人が来た時に臭かったらいかん。匂い袋を買うてきてくれ」とも言った。

近くには匂い袋など売っていない。

安価なオーデコロンを買ってきたら、喜んでまいていた。

 

口ひげもあった。

「口ひげを落としてくれたら手入れが楽なのに、と思っていたけれど口ひげは剃らしてくれなかった」とたか子さんは言う。

 

義父は寝たきりになってからは近所の人が

「どうぜよ」と時たま話にきてくれるのが関の山で、

自分の身体の自由も利かないから短気になった。

 

元々頑固な爺さんだったが、大便を取っておむつを替えてきれいに拭いた後は

「ねえは上手じゃ、ざっとした看護婦より上手じゃ」と言うこともあった。

「ねえは笑っておむつ替えてくれるき、しょうえい(とても良い)」とも言ってくれた。

「怒りよっては、うんこ替えられんで」と言ったものだった。

 

しかし、それもつかの間、おむつを替えたとたんにまた起こりだす、

といった具合だった。

 

尿は尿瓶でとった。

大便はあまり便秘が続いた時には浣腸や摘便をしたが、固まったらなかなか出ない。

下剤を飲ませて1時間ぐらいたってから摘便するが、いったん出だしたら、一度処理してもまた出てくる。

 

始末しても始末しても止まらなくなる。

布団ごと首のあたりまで水状になって染みていってしまう。

やっとの思いで片づけた後は、それからまた1週間は出なくなってしまう。

その繰り返しであった。

 

役場からベッドを貸してもらったとき、

初めのうちは、なんと作業しやすいことだろうと思った。

しかし、大便をした時に、義父の体は大きかったから、

ベッドの上であちらを向いたりこちらを向いたりしていると、ベッドは布団の幅しかないから、大便が畳の上にタラタラと流れてしまうことがあった。

 

また、おむつを当てるのに、義父にまたがって交換したから、ベッドの上にいちいちあがらなくてはいけないのは大変だった。

最後はやはり布団を畳に下した。

今のように上下できたり、起こしたりできるベッドではない。

道具は実際に介護してみないと使いやすいかどうかはわからないと思ったものだ。

 

義父は81歳で寝付いて87歳で亡くなった。

 

最後の1年間は痴呆が始まっていたのか、素手で大便をつかんでしまうようになった。

臭いは本人にはもうわからない。

だからといって、いつもそばについているわけにはいかない。

見ていない時に、大便を顔や布団などあらゆる所になすりつけてしまう。

いくら洗っても、爪の中に入っていまった便は取り切れない。

臭いが残って鼻につき、食欲がなくなってしまったこともあった。

 

好物の刺身を食べて「これはコンニャクか」と言ったり、

コンニャクのときには刺身と言ったり、舌の感覚もなくなってしまった。

柔らかいものなら何でも食べた。

3度ともお粥で、缶詰のおかずもあった。

目が覚めた時に何か口に入れたがるので、パンなどを手の届く所に用意しておいた。

 

義父は寝たきりで7年半生きた。

医者に度々診てもらうというわけではなく、具合の悪い時は、近くの看護婦に寄ってもらい、注射をしてもらったくらいだ。

内臓は丈夫であった。

 

最初のうちは、昼夜逆転の生活をしていたから、

夜になると「ねえよ」と呼ばれて起こされた。

いろいろ言いつけられて、寝かせてくれず、本人は昼に寝ていた。

そのうち、夜はパンなどを置いておけば朝まで寝てくれるようになった。

 

当時を振り返ると、ろくに寝ておらずいつも寝不足で大変だった。

でも、その時はあまり大変だとは思わなかった。

しかし、

「年に1度でもいいから、どこかへ遊びに行きたい」

 

と思わなかったと言えば、それは嘘になる。

 

 

 

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

【読書】土井 善晴 著「一汁一菜でよいという提案」から考えた家庭料理

 家庭料理、日常料理の場合、あたりまえの調理以上に手をかける必要はない。

 

泥を洗い、食べやすく切って、火を入れる。

この基本的なながれにあるものは手間とは言いません。

 

家庭料理においては手を掛けず、旨さを追究しないことが、美味しさにつながります。

 

 

一汁一菜でよいという提案

一汁一菜でよいという提案

 

 

 

 

きっかけは、今日の料理でエビチリを教えていたのを見て、

作りやすそう、作りたいと思った。

その次に、この先生の本を読みたいと思った。

 

TSUTAYAで「一汁一菜でよいという提案」の題名が気になった。

理由は3か月の骨折入院をしていたその時の病院食が

朝ごはんは白米、味噌汁、ふりかけ、だけだった。

 

そのときに思ったのは、栄養士さんが考える朝ごはんがこれか、

これでいいんだ、ご飯と、味噌汁とふりかけだけで。

 

 

 

土井 善晴という生まれたときから料理まみれの男が、だって、土井 勝が父親だよ、

料理について語っている本です。

時短の手抜き料理の本ではないです、粗食にしてやせる、という本でもないです。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

いちばん大切なことは、一生懸命に生活すること

暮らしにおいて大切なことは、自分の心の置き場。

心地よい場所に帰ってくる生活のリズムを作ることだと思う。

 

その柱となるのが【食事】です。

毎日食事をすることで、自分がコントロールするところへ帰ってくる。

 

一汁一菜とは

【システム】であり考え方であり、

【美学】であり

【生き方】だと思う。

 

家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで地味なもの。

私たちがものを食べる理由はおいしいばかりが目的ではない。

家庭料理はおいしくなくていい。

 

「慎ましい暮らしは大事の備え」

「簡単なことを丁寧に」

一汁一菜は決して手抜きではない。

日常の家庭料理は手を掛けないもの、それがおいしさにつながります。

 

泥を洗い、食べやすく切って、火を入れる、この基本的な流れにあるものを

手間とはいいません。あたりまえの調理です。

 

 

日本には「ハレ」と「ケ」という考え方がある

日本には手を掛けるもの、手を掛けないものという

二つの価値観がある。

相反する二つの価値観を並存させ、けじめをつけて区別する。

 

地に足のついた慎ましい生活とハレの日の贅沢、

両方を使い分けて、日本人の幸せはある。

 

暮らしとは、毎日同じことの繰り返しです。

毎日同じ繰り返しだからこそ、気づくことが沢山ある。

 

毎日、毎食の一汁一菜、同じものを作っているつもりでも、

四季の変化とともに、おのずと変わってきます。

 

毎日の営みである【食事】には人間の根源的な生きる力を養う働きがある。

 

買い物をする→下ごしらえ→調理する→【料理】→食べる→片づける

 

人生とは、食べるために人と関わり、

働き、料理して、食べさせ、

伝え(教育)、家族を育て、命をつなぐことです。

 

 

【料理する】を省略できる現代の日本

生きるための学習機能を失うことになり、

行動して食べることが、こころを育てると考えれば、

大いに心の発達やバランスを崩すことになってしまいます。

 

台所の安心は、人の心にゆるぎない平和をもたらします。

いつもいつも一緒に食卓を囲まなくても、

帰ったら、温めればいい味噌汁があって、ご飯が冷凍庫にあればいい。

 

おいしくなくてもいい家庭料理。

家庭料理がいつもいつもごちそうである必要も、

いつもいつもおいしい必要もありません。

家にある材料は、いつも新鮮なものばかりではなく、

うまく煮えない芋もあるし、腐りかけの豆腐だってある。

家の中でありとあらゆる経験をしているのです

上手でも下手でも、とにかく、出来ることを一生懸命することが一番です。

 

 

一緒に食べれなくてもいい

食育では一緒に食べることの大切さが説かれるけど、

商売をしている家族、親が働いている家庭では一緒に食卓を囲めないのは当然で、

親が用意した汁を自分たちで温めて、子供だけで食べる。

それでも大切なものは、もうすでにもらっている。

それが、手作りの料理です。愛情そのものです。

だから、別に一緒に食べることばかりが大切じゃないです。

 

おいしい料理ができるのは技術ではないと思っています。

”普通の人が作るものに、特別おいしいものもあるのです”

高価なお料理よりも、何もしないのに美味しい料理がある。

お金の価値では表せない、きれいなものがあるのです。

 

日本には大自然と人間の間に、断絶するものがありません。

大昔も今もこの孤島には、自然と人間は平衡しています。

ゆえに古いもの、中くらいのもの、新しいものも一緒にして、今に生かせるのです。

 

料理することは、生きることです。

大昔も今も、料理することで、大自然に直接触れているのだと信じるのです。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 

食事という行為は買い物をして、準備をして、考えて、切ったり、煮たりひっくりかえしたり、して出来上がったものを盛り付けて、食べる。

食べたら、後片付けをしてひとまず終了。

毎日の普通の食事を通してあらゆることを私たちは学んでいる。

 

いろんな事件が起こるたびに思うのは、

事件を起こしてしまった人たちは、料理したものを食べる、だけでなく

準備をしたり、後かたずけをしたり、

自分が気に入らないものも美味しく食べる工夫をしたり、

美味しく出来てなくても、文句を言わずだまって食べるとか

食事のまえに、いただきます、食事のあとに御馳走様を言うとか

ができていたなら、大それた事件にはならなかったのではないかと、、

 

食事を大切に丁寧にすることによって、人生を学んでいると思います。

 

この本は主婦と呼ばれる、ごはんを毎日作らなければならない人に向けた本ではなく、

生きているオトナに向けた本です。

 

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

 

chizukoike.hatenablog.com