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【模範嫁を訪ねて】たか子さんの結婚と介護 第1章

昔の結婚生活を伝えたくて…

 

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2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

(筆者もメンバーの一人でした)

 

 

 

たか子さんの出会い

 

県境に近く、急な坂を車で15分ほど上がった標高400メートルにあるたか子さんの家は、正面に連峰を望み、広々とした光景を我がものにする絶景の地にある。

 

昭和35年、高校を出て農協に事務員として勤務していた。

そこに肥料などを買いに出入りしていた夫に見初められ、その年の12月、18歳で結婚。

 

夫は初め「高知の大丸百貨店に勤めていて、ここにはおらんのじゃ」と言っていた。

しかし、式の前に用意した嫁入りダンスなどは、夫の指示で山の上にある夫の実家に運び込まれていた。

普通なら、それだけで市内に住んでいるはずはないと気が付きそうなものだが、

うぶな18歳では疑問も持たず、市内へいくものだと思っていた。

実際には、夫は両親が高齢のため地元に帰り、親の後を継いで百姓をしていた。

4人兄弟の末っ子である。

 

たか子さんの結婚生活

 

結婚の日は雪がたくさん降った。

春先まで雪が残るから、雪が溶けるまではそれほど仕事はないが、

春になったらお茶を摘み、蚕を飼い、天気が良い日には畑に出て農作業をした。

 

雪の季節以外は全く休みなく仕事があった。

食事の用意はご飯を竈(かまど)で、杉紫や杉の枯れたのを集めて火をつけ、

お湯を沸かしたり、ご飯を炊いたりした。

 

水は山の水を引いていた。

ボンベのついたプロパンが最初に入ったのは昭和42年~3年頃だろうか。

便利になったと感じた。

 

洗濯は空色の粗悪な固形石鹸を使って、水で洗った。

洗濯板は、良く使い込んであるので波がなくなって平たくなっていた。

手袋もなく、冬はひびとあかぎれで指はひどくなった。

 

標高が高いこの辺りでは、冬になると洗濯ものが凍って乾かないので、天気の悪い日は室内で干していた。

最初に洗濯機が来たのは、昭和44~5年くらいだろうか。

ローラーを手で回して絞るものだか、それが来た時には本当に助かったと思った。

それでも、便の始末などはやはり手で洗わなければならなかった。

子供は大便が毎日出るが、大人は毎日出るわけではないので、大便のおむつの洗濯を毎日するわけではなかった。

 

結婚当初、まず義母に

「ここは前から朝は早ようて夜も早い、と相場が決まっている」と言い渡された。

「嫁は看てもらうためにもらうんじゃけ、その辺を嫁に言うとかないかん」と義母は下に住むおばあさんに言われたという。

 

子どもが生まれた時、夜泣きが激しくて、朝はいつも眠かった。

しかし、真冬であっても6時半になればさっさと迎えに来て

「ねえや、もう起きんか、7時やか」と起こされた。

初めのうちは声をかけられて飛び起きた。

 

その当時としては、義母が特に厳しいというわけではなかった。

近所で嫁の悪口を言うわけでなく、代用教員をしただけのことはある賢い人で、

若い嫁が3人いてもかなわないほどの出来る人だった。

 

何も分からない18~9歳の孫のような娘を相手に苦労したことだろう。

実際、たか子さんは義母の孫と同じ年であった。

夫は4人兄弟の末っ子だから、夫の姉の子供が夫と同じ年であり、

兄の子供がたか子さんと同じ年だった。

「今考えたら孫にかかるようなもんで、未熟だから怒ったんでしょうねぇ」と言う。

 

孫のような嫁と暮らすことになったのは、兄たちが順に出て行ったからだ。

一時は長男が一緒にくらしていたこともあったのだが、兄嫁との関係と

義夫の介護と、そして子供の教育を考えて出て行ったと後から聞いた。

 

 

 

たか子さんの仕事

 

たか子さんは結婚するまで農業をしたことがない。

結婚前は「農業するにようばん(農業をする必要はない)」という約束であったけど、

農作業はもちろん、「嫁が来たから人手はある」ということで、

それまではしていなかった蚕を飼うことになった。

 

義母はたか子さんを「ねえ」と呼んだ。

「ねえが来たから、ちっとは蚕でも飼おうか」ということになった。

初めは蚕を見たこともなく、気持ちが悪かった。

「おばあちゃんは何にもわからん嫁に一から教えこんで難儀なことだったろう」

とたか子さんは当時を振り返る。

 

5時ごろ起きて、義父の顔を洗っておむつを替え、ご飯を食べさせる事から

1日が始まった。

洗濯をすると7時、

それから子供たちと自分たち夫婦の食事をして、7時半には畑に出た。

蚕の季節は夫と2人で蚕の餌になる桑を1日4回、前の庭で取って来なくてはならない。

蚕は春、夏、秋と年3回飼った。

春は特に多く飼った。

蚕は最後の3日くらいはたくさん食べさせて太らせなくてはいけないから、

1日中餌をやる。

この間は、蚕の世話で寝る暇がないほどだった。

少しずつ蚕を増やしていって、餌が足りなくなり、よその家の桑を買ってきた。

蚕は大事な現金の収入源だった。

普段は自作のジャガイモとおジャコのおかずであっても、繭が売れたら、

「カツオでも、買おうか」という余裕ができた。

値はいい時で1キロ2000円くらいだった。

しかし、勤めに出るようになってからは、

蚕の仕事はあまりに大変なのでやめた。

 

 

 

たか子さんの介護

 

長男が紫斑病にかかったころ、義父は寝たきり状態だった。

元々は顔にヘルペスからの傷ができて病気には注意深くなっていた。

一度寝込んで、「そろそろ起きないかんね」と言っても起きずにおって、

それから寝付いてしまったと言う。

 

一時は長男も具合が悪いし、義父を近くの診療所に入院させることになった。

あまり丈夫でない義母もいたし、子供も小さいから、

昼はたか子さんが、夜は夫と夫の兄が義父を看るという約束であった。

 

しかし、入院したその夜に義父から

「痛いから先生を起こしてくれ、薬をもらってくれ」と言っても

「先生は起きてくれん」と言って夫たちは酒ばかり飲んでいたという。

 

翌日たか子さんが病室に行くと

「あれらは酒ばかり飲んで面倒を見てくれんき、今晩からは家に帰っては困る」

ということで、たか子さんが夜も昼も付き添いをしなければならなくなった。

 

病室を2つ借り、子供2人を連れて病院に泊まり込んで義父を看ることになった。

家は夫と義母に任せていた。

そんな暮らしが1カ月近くなったころ、

義母の足が立たなくなったという知らせが来た。

 

これはもう、自分が義父母を看るしかないと覚悟して、実家に2人の子供を預けることにした。

それから義母を背負って入院させ、泊まりこんで義父母の面倒を見ることに専念した。

60日位入院して義父母とも退院できた。

 

その後、義母は一時自分のことは出来るようになった。

義母は気難しいところがあっても、賢い人だったから、不満を表面に出すことはない。

 

しかし時には孫と喧嘩をしたり、テレビのチャンネルを争ったりすることもあった。

当時こまどり姉妹の全盛時代で義父母はそれを見たがり、

子供たちはマンガを見たがった。

そんな時にはきつい声で、テレビの前から子供たちを追い払った。

そんなふうに短気なところもあった。

 

たか子さんは、テレビの前から追い出された子供たちが台所にいる自分にまとわりつくので、「子供がマンガを見てくれると、炊事がはかどるのに」と思った。

 

以来義父は7年間寝たきりになり、義母は途中で亡くなったが、

2人とも孫の小学校入学を見ることができた。

 

昭和38年には長女が生まれた。

大人と子供で3人分のおむつが必要な年であった。

おむつに必要な浴衣や木綿類は一切すてずに取って置き

小さなものは30センチ四方に切って、お尻を拭くのに使った。

 

仕事がない時や手が空いた時には、木綿類を小さく切って箱にしまっておいた。

結婚した当時は、冬はネルの着物を着て腰巻をしていたが、それらは全部ほどいておむつに化けてしまった。

 

風呂は、その頃は入浴車もなかったし、清拭だけだった。

義父の下の世話の時に,性器の周りも木綿の布でさわって痛くない程度の温度の熱いお湯で、のばしながら拭いていく。

きれいに拭いていたら、性器が大きくなる。

 

まだ、結婚してすぐの若い頃だし、義父に男性性を見るのはいやだった。

一度だけ夫に「私、気持ち悪いき、お義父さんにいうといて」と言ったことがある。

男性の下の世話をするということは、そういうことも含む。

今なら何ともないが、若い時は一番嫌だった。

 

「そんなこと、母にも誰にも一切いえんかった。とてもではないが、他人には口にだせなかったです。嫁のつらさですね。」

そうかといって始末をいい加減にすればすぐにお尻が荒れてしまう。

 

「お婆さんの時は下の世話も何ともなかったが、じいさんは嫌だったです」

「じいさんは(男の性は)雀100まで、と言うでしょう、たとえ嫁でも若い女ですよね。でもばあさんとは嫁と姑の一対一(女同士との意)ですから」

 

拭き上げた後、シッカロールをあまりたくさんつけるとよけい荒れてしまう。

そこで安物でもよいから固形のおしろいを買って来てつけた。

そのおかげか、股ずれも床ずれもしなくてすんだ。

大腿部の端が荒れてきたので、それからおしろいにしたのだが、誰に聞いたのかは思い出せない。今のように介護情報がある時代ではないので、どこかで聞いたのだろう。

 

義父はおしゃれであった。

「ねえよ、寝ていると上からほこりが落ちてくる。サングラスを買うてこい」と言う。

「何ちゃ、ほこりはかからん」と言うと

「ねてみなあ、わからん」と言うので「はい」ということになる。

 

「人が来た時に臭かったらいかん。匂い袋を買うてきてくれ」とも言った。

近くには匂い袋など売っていない。

安価なオーデコロンを買ってきたら、喜んでまいていた。

 

口ひげもあった。

「口ひげを落としてくれたら手入れが楽なのに、と思っていたけれど口ひげは剃らしてくれなかった」とたか子さんは言う。

 

義父は寝たきりになってからは近所の人が

「どうぜよ」と時たま話にきてくれるのが関の山で、

自分の身体の自由も利かないから短気になった。

 

元々頑固な爺さんだったが、大便を取っておむつを替えてきれいに拭いた後は

「ねえは上手じゃ、ざっとした看護婦より上手じゃ」と言うこともあった。

「ねえは笑っておむつ替えてくれるき、しょうえい(とても良い)」とも言ってくれた。

「怒りよっては、うんこ替えられんで」と言ったものだった。

 

しかし、それもつかの間、おむつを替えたとたんにまた起こりだす、

といった具合だった。

 

尿は尿瓶でとった。

大便はあまり便秘が続いた時には浣腸や摘便をしたが、固まったらなかなか出ない。

下剤を飲ませて1時間ぐらいたってから摘便するが、いったん出だしたら、一度処理してもまた出てくる。

 

始末しても始末しても止まらなくなる。

布団ごと首のあたりまで水状になって染みていってしまう。

やっとの思いで片づけた後は、それからまた1週間は出なくなってしまう。

その繰り返しであった。

 

役場からベッドを貸してもらったとき、

初めのうちは、なんと作業しやすいことだろうと思った。

しかし、大便をした時に、義父の体は大きかったから、

ベッドの上であちらを向いたりこちらを向いたりしていると、ベッドは布団の幅しかないから、大便が畳の上にタラタラと流れてしまうことがあった。

 

また、おむつを当てるのに、義父にまたがって交換したから、ベッドの上にいちいちあがらなくてはいけないのは大変だった。

最後はやはり布団を畳に下した。

今のように上下できたり、起こしたりできるベッドではない。

道具は実際に介護してみないと使いやすいかどうかはわからないと思ったものだ。

 

義父は81歳で寝付いて87歳で亡くなった。

 

最後の1年間は痴呆が始まっていたのか、素手で大便をつかんでしまうようになった。

臭いは本人にはもうわからない。

だからといって、いつもそばについているわけにはいかない。

見ていない時に、大便を顔や布団などあらゆる所になすりつけてしまう。

いくら洗っても、爪の中に入っていまった便は取り切れない。

臭いが残って鼻につき、食欲がなくなってしまったこともあった。

 

好物の刺身を食べて「これはコンニャクか」と言ったり、

コンニャクのときには刺身と言ったり、舌の感覚もなくなってしまった。

柔らかいものなら何でも食べた。

3度ともお粥で、缶詰のおかずもあった。

目が覚めた時に何か口に入れたがるので、パンなどを手の届く所に用意しておいた。

 

義父は寝たきりで7年半生きた。

医者に度々診てもらうというわけではなく、具合の悪い時は、近くの看護婦に寄ってもらい、注射をしてもらったくらいだ。

内臓は丈夫であった。

 

最初のうちは、昼夜逆転の生活をしていたから、

夜になると「ねえよ」と呼ばれて起こされた。

いろいろ言いつけられて、寝かせてくれず、本人は昼に寝ていた。

そのうち、夜はパンなどを置いておけば朝まで寝てくれるようになった。

 

当時を振り返ると、ろくに寝ておらずいつも寝不足で大変だった。

でも、その時はあまり大変だとは思わなかった。

しかし、

「年に1度でもいいから、どこかへ遊びに行きたい」

 

と思わなかったと言えば、それは嘘になる。

 

 

 

 

 

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