【結婚】って何?~模範嫁と呼ばれたあや子さんの結婚
昔の結婚生活を伝えたくて…
2000年に「高知女性の会」のメンバーが、
「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから
了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して
聞き取り調査を行った事をまとめた小冊子から転載しています。(筆者もメンバーの一人でした)
あや子さん
結婚
あや子さんは高知の山間の貧しい農家で生まれた。
2歳の時に実母を亡くし、それからは兄弟に育てられた。
小さい頃から自分のことと炊事洗濯を全部していた。
夫とは20歳の時に見合い結婚した。
あや子さんのおば夫婦に子供がなかったので、
「夫婦養子」という形で昭和27年に二人で入った。
義父母は当時65歳と60歳ぐらいで、近所でも評判の仕事師だった。
仕事も家のことも実家に比べたら楽だと思った。しかし、義母が大変に難しく
「ここに居ることはもう嫌じゃ」と何度も思ったことがあった。
結婚して2カ月ほどたった頃一度だけ二人で家出したことがあった。
まだ子供ができる前だった。夜中に自転車に荷物を積んであや子さんの実家へ行った。
実家の兄に「もう嫌なことがあるけん、もんて(戻って)きた」と言った。
しかし、兄は「難しいことはわかっちょたけんど、それはしかたないけん、どうしたってあの家に居らないかなあえ」と言って説得した。
それでも姉は「家でをされたらね、向こうも若いもんが大事だってことがわかって、もう少し優しくなるかもしれん」と知恵を出してくれた。
1週間ぐらいたった頃、義父母から戻って来てくれと言う話があり、あや子さんは嫌でたまらなかったが、結局戻った。
それからは姉がいうように少しはましになった。
そして子供もできて仕方ないと思っているうちに義父母の身体も弱ってきた。
生活
今は田圃になっているが、昔は全部畑にしてトウキビ、麦、芋を自家用に作っていた。
まだ、米はあまり食べられない時代でキビご飯、麦ご飯を食べて生活していた。
朝は5時に起きて夫と子供、義母の弁当を作った。
くどで薪でごはんを炊いて、七輪でお茶を沸かし、洗濯をして畑仕事に出た。
夕方は日暮れまで仕事をした。
仕事から帰って、義母を看て子供の世話をした。
毎日が一生懸命だった。
トウキビご飯を作るためにトウキビの皮をむいて縛って軒先に干した。
干したトウキビは全部粉にして、キビ臼で挽いて、
細かいふるいにかけて下に粉を落とし、
ふるいに残った「ひきわり」という小さくなった米粒のようなものに
米を少し混ぜて炊く。
今はこの辺りも豊かになって、パンも魚も買えるが、昔は食事の前に蒸かし芋を食べて、米を食べないようにした。
年間10俵ぐらいは自家用にキビを作った。
秋口に収穫して干して、雪の降る頃に棒で叩いて落として挽く。
夜なべにするので寝るのは夜11時頃になった。
和紙の原料である三椏で現金収入を得ていた。
炭焼きもしていた。
しかし、そのうち義父母が山へ行けなくなったので、夫が出稼ぎに行って働いた。
あや子さんも近所の畑仕事などを請け負った。
義父母の小遣い、子供の学費といろいろいるので贅沢など程遠く、つましい生活をしてきた。
夫の出稼ぎは10年に及んだ。
盆と正月ぐらいしか帰ってこない。留守はあや子さんが一人で守った。
中でも一番記憶に残っているのは昭和38年に大雪が降って、夜中に一人で屋根の雪かきをしたことだと言う。
「その時に主人が出稼ぎでおらざったですがね。おじいさんとおばあさん、私、子供だけでした。おじいさんはもう上へ上がって雪かきをすることはできんきね、私が子供を寝かしちょいて、屋根のところにはしごを掛けて上がって、雪下ろししたがです。そうせんとね、家がメリメリッて鳴るがよ、ひしゃいだら(つぶれたら)いかんと思うてね。寂しいとか、自分一人が、とか思う暇もなくただ一生懸命でした」
また、水にも苦労した。
その当時水道は引かれていなかった。
山から水を引いていたが、冬はホースが凍って大変な手間がかかった。
ホースの凍ったところを切って長いホースを束ねて風呂場まで運び、お湯を張った風呂の中へつけて溶かした。
それでもなかなか溶けなかった。溶かしてもまた凍る、そんな繰り返しだった。
雪の降る頃が一番苦労した。
「自分がくじけたらいかんと思い頑張った。子供も3人おるし親も2人見ないかん。主人がおらん言うても、あとは自分が守らなければと、ただ一生懸命でした。」
プロパンガスを使い始めたのは昭和60年代になってからだ。
出産
結婚した翌年に長男が生まれた。
その下に女の子が二人。1人亡くしている。
出産の直前まで畑仕事をしていた。
出産は産婆さんを頼まず、あや子さんと夫でした。
畳を上げてその上に新聞紙とボロ布を敷いた。義母は子供を産んだことがないので何も分からなかった。
へその緒を切る時も「こんなに切らないかん」と言ってあや子さんが夫に指示した。
長男の時はそれですんだが、下の女の子の時は上の子にまだ手がかかったので義父にみてもらった。
出産の後は3日か4日休んだだけで日常の家事を全部した。
あや子さんの身内から「あんまり早よう起きると体に悪い」と言われたが、子供のおむつも洗わなくてはならないし、夫の食事も作らなければならないので、そんなに長く寝てるわけにはいかなかった。
義母もゆっくり休めとは言わなかった。
義母が子供を産んだことのある人だったら楽だったのに、と思ったこともあった。
「まあ、よく家で産んだこと、今だったら恐ろしい」とあや子さんは当時を振り返った。
介護
義父は焼酎の好きな人だった。
長男を「可愛いい、可愛い」と言ってよく世話をしてくれた。
世話のいらない人だった。
朝起きて顔を洗いに出ていって、そのままバターンと倒れて、その夜に亡くなった。
82歳、脳溢血だった。
その当時夫は出稼ぎに出ていて、電報を打ったが間に合わなかった。
長男が高校1年生で一緒に葬式の手伝いをしてくれた。
その8年後に義母が亡くなった。
義母は足が悪くて長い事患っていた。
義母が生きていたころは義母の世話をすべて義父がしていた。
義父が亡くなってから8年間はあや子さんがした。
義母は体の大きな人で体重が60キロあった。風呂場ははなれたところにあったので背負って行った。白内障の手術もした。
そのころには、難しいことも言わなくなって可愛らしくなっていた。
「すまんね、毎朝毎朝、熱い味噌汁をもろうて食べて、おらも幸せじゃ」
と言って喜んだ。
ご飯と汁を作って食べさせてから、畑仕事に行く。
昼食用に弁当と、ポットにお茶を入れておいた。
寝たきりになったのは2年間ぐらいだ。
畑仕事や人に雇われて仕事にも行っていたが、後には家にいるようにした。
義母が寝たきりになったのは、あや子さんが40歳くらいの時だった。
義母が患ってからの8年間は家を留守にしたことはなかった。
「若い頃にはいろいろあって、ばあさんも私に刺し串みたいに当たったこともあったけんど、孫がいるし、じいさんが死んでからは私を頼り切ってね、看ちゃらないかんおもうてね」
体が不自由になると義母が可哀想に思えた。
義母もつらかったのだろう。自分の足が動かなくなってからは
「もう死にたい。死んだらえい、おまんばっかりに迷惑かける」
とあや子さんが世話をするたびに言った。
あまり言うのであや子さんも腹を立てて
「ばあさん、それっぱあ死にたいがか」と言うと
「もう、死にとうてたまらん」と返えってきた。
ちょうど入り口に紐があったので
「死にたかったらこれで、首をつりや」と紐を義母のほうに放り投げた。
義母はどうするだろうと思って見ていたら、泣く泣く紐をポンと放り投げて
「もう死ぬことはやめた、おら、よう死なんわや。もうあや子に世話かけないかんわや」と泣きながら言った。
「もうやめたか、もう死ぬじゃいうもんでないで」
ということもあった。
義母は足の立つうちは自分でトイレに行った。
ちょっと値が張ったが洋式のポータブルトイレを特別に注文した。
ベッドはなかったので、ミカン箱で高めの台を作った。その上に畳を一枚敷いた。
その横にポータブルトイレを置いた。
義母は気丈な人でおむつを嫌がった。
寝たきりになってもおむつをしたことは何日もなかった。
おむつはネルの寝間着や毛布をきれいに洗ってとっておいたのを切って使った。
貧乏してきたので物をつてられないという性格が役に立った。
汚れたおむつは洗っても臭いが取れないので、
自分のところの杉山に穴をほって埋めた。
長い着物は少し短めに切った。
その着物もあや子さんが自分で作った。
さっと着られるように袖なしの半纏も作った。
「のうがいい(使い勝手がいい)」といって義母も喜んだ。
おかずを特別に義母に作ったということはないが、柔らかいところや良いものをあげた。義母はなんでもおいしい、といって食べた。
40代になったあや子さんが一番心配したことは
「ばあさんがいつまで生きるか。私が元気なうちはばあさんを看るが、年がいってからではよう世話は出来ない、困ったよ」ということだった。
表彰
地区の区長さんから話があったとき
「私は表彰をうけるようなことはしてないけね、表彰はいりません」
と最初あや子さんは断った。
しかし、民生委員などに「絶対にお前はよう看たき、表彰されることになったがじゃき、いてきいや(行っていらっしゃい)」と説得されていくことにした。
県庁へは夫と一緒に近所の人に車で連れて行ってもらった。
そのときに副賞として目覚まし時計と湯呑セット、そして表彰状を貰った。
義母は「お前がよう看てくれたきもろうたがやき、よかった、よかった」と言ってねぎらってくれた。夫は
「お前はようやったね、おらがおらん間もお前は家の中のことようしてくれた」と言った。その時に、今までの苦労を思ってあや子さんは初めて泣いた。
子供に「表彰された」と言ったら、「おばあちゃんをよう看たけよ、母ちゃん。それほどにばあちゃんにせんと、ちと、母ちゃんも休みや」と言ってくれた。
晩年は義母も優しくなっていて、
「あや子がおらないかん、あや子のおかげでおらは生きちょるんだ」ということをいつも言っていた。
あや子さんも「おばあさんがよかったから、もらえんような賞をもろうて、私もね、おばあさんに感謝した」という心境になった。
そして昭和52年に義母は亡くなった。
そして、いま・・・
「私がしたようなことはもう絶対に嫁も娘もようせんと思うちょります。それどころではないです。年寄りは汚い、おじいちゃん、おばあちゃんはいらん、という人がおるがじゃき。また私も、私がしてきたようなことを嫁にも娘にもさせとうないと思います。自分のことはできる限り自分でして、もうようせんとなったらホームへ入るとか、そういう方法をとるしかないと、私がしたことを子供に「せい」と言っても無理だし、絶対にさせたくありません。」
いままでの人生を振り返って今の若い人たちに何か?という問いには
「若い人には言われんと思いますが、年よりだけでなく弱い人にもっと優しくしてほしいと思います。この間、運動会のお手伝いに行って聞いた話ですが、45歳ぐらいの若い嫁さんと一緒に炊事をした時『昔はおばあちゃんたちはズボンも継いではいた』
というような話をしたら、をの若嫁さんが『いまわそんなにせんち(しなくても)生活できるけん、そんなにせんちかまわん』と言われました。今40代の人がそういう生活をするということは、その子供が私たちみたいなお婆さんの年代になったときには、どういう生活をするかと不思議に思うがですよ。田舎の若い嫁さんがそう言うがです。『いまはお金がどんどん取れる。それで何でも簡単に買って食べる。手間を掛けたり節約する必要はない』と言うがですよ。そうかなあと私は思います。」
そして最後に話してくれた。
「最近は旅行に行くがです。主人と一緒に。年に2度ぐらいは。『お前の8年間はどこへも行かんと世話したけ、大変じゃった』と主人も言います。ハワイへも行きました。今は大学4年になっていますが、孫に『大学受かったら連れていちゃろう』と言っていたら、2人とも大学に受かって、それで主人と孫2人、それから私の一番下の兄弟の娘とね、ハワイへ行って来たがです。うんと旅行が好きでね、中国へも行って来たし、今年は沖縄へも行って、それから富士山へも行って来たがです。主人と一緒に。富士山は雪があって登れざったがです。主人も昔は気の荒いところもありましたが、今はわかってしもうちょるき、旦那はこんな男じゃと。おなごがこらえんと、男にこらえ、言うても絶対にダメじゃき。えらいけんかする年でもないわねぇ。孫がね、孫が小遣いを欲しがるき、孫に小遣いを取られて、旅行するのが楽しみながです。」 以上
モンペをはいて洗いざらした割烹着を着て、麦わら帽子をかぶって仕事に行く毎日の、お嫁さんの秘密の楽しみは朝起きて一番にするお化粧だ。何万円もするクリームをぬる、化粧水をたたく。ファンデーション、頬紅、口紅、全て高給品だ。
旦那も舅も化粧のことには口を出さない。化粧水が何万円もすると言われたらそういうもんだと思っている。