いつも、何かをさがしてた。

高知に住んでるおばあさんの日記

【結婚】って何?~模範嫁と呼ばれたあき子さんの結婚

昔の結婚生活を伝えたくて…

 

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った事をまとめた小冊子から転載しています。(筆者もメンバーの一人でした)

 

あき子さんの場合

 

結婚

 

あき子さんは昭和12年10月、高知県二期作で知られるA市で生まれた。

7人兄弟の下から2番目。中学卒業後、洋裁・和裁を1年ずつ習った。

 

昭和30年11月18歳で見合い結婚。

仲人専門の人が持ってきた縁談だった。

夫は5歳上の23歳だった。

 

夫とは2回あっただけで結婚した。

夫の母親が中風だということは仲人から聞いてしっていたが

「身の回りのことはできるから心配いらん。ちょっと面倒みてあげるくらいでいい」

と言われた。

 

夫のことは「良い方だから」というので乗り気で来たが、義母は寝たきりでやっぱり思惑違いだった。

 

披露宴は自宅でした。

結婚式の翌日か翌々日から稲刈りの手伝いをした。ちょうど二期作の稲刈りの時期だった。実家では5歳上と3歳上の兄がいたので、農作業の手伝いをしたことがなかった。

鎌や鍬の使い方など一から義父に教わった。

 

結婚してから背がのびるぐらいの、まだまだ子供だった。

里の母に「どこへ行っても一緒だから、お母さんに精いっぱい尽くしてちゃんと仕えなさい」と言われたが、

夜になると、里心がついて、里のほうを見ては涙が出た。

 

義父はこの家に養子に来ていた人だった。

最初の妻は男の子を2人産んで、3人目が生まれた時にお産で亡くなっていた。

それから数年後に夫の母が後妻に来た。

義父は義母のことを

「13歳も年下だから、こちらが面倒見てもらえるかと思ったら反対になった。あき子さんたちに迷惑かける」

ということはよく言っていた。

 

義母を風呂に入れるのが、結婚してすぐのあき子さんの役目だった。

下の世話は若いあき子さんには気の毒だからと、何年かは義父がしてくれていた。

義父は67歳ぐらいで仕事も少し手伝ってくれたが腰がすごく曲がっていた。

 

生活

 

結婚したその日から、部落のいろいろなこと、例えば不幸、婦人会、病気見舞いなど女の出るところはすべて、あき子さんがひとりですべてしなければならなかった。

 

1年あまりして子供が生まれた。

上の子は助産院でお産をして実家に1週間いた。

産後の肥立ちが悪くて実家の母が

「嫁ぎ先へは面倒見に行けんき、里のほうでみちゃるき」

ということで実家にに帰ったが、

義父と夫がいて手伝えるのにすぐ帰ってこない、ということで義母は不服だったようだ。その当時では、出産後はすぐに婚家に帰ることが多かった。

 

上の子は首が座ってない時でもタオルを首において、負ぶって家事をした。

下の子の時も助産院から帰って10日もすれば家事をした。

義母のお風呂も子供をおんぶして入れた、背中で子供がギャギャ泣いて大変だった。

どこへ行くにも子供を背中に負ぶって行った。

忙しい時は隣の60代のお婆さんに子守りを頼んだ。

 

二期作とたばこ作りで体重は42キロになった、二期作は15年位前まで続いていた。

結婚当初、田圃は牛馬に引かせて代掻きをしたが、しばらくして耕運機が来た。

稲刈りは8月と11月、人を3人住み込みで雇い、一日に朝、10時のおやつ、昼、3時のおやつ、夜、と毎日大人数分を作っていて、二期作はほんとうに大変だった。

 

雇っている人たちは空が明るくなって来ると、涼しいうちに稲刈りに行く。

それにあわせて朝、暗いうちから起きて食事の用意をしなければならなかった。

朝食は5時ごろで2升炊きのお釜で炊いていた。

息子が小学1~2年頃、共同炊事ができて、公民館でおかずだけ作ってくれた。

息子が自転車で取りに行ってくれてずいぶん助かった。

「皆が食べるものが入っているのだから、絶対帰るまで開けたらいかん」

と言ってはいたが、途中で必ず見て帰ったらしい。

耕運機が入ってからは、泊まり込みの日雇いの人を通いにしてもらって、気をつかわなくてもよくなり、ずいぶん楽になった。

 

忙しく仕事と子育てをしながら義母の世話をした。

義母は好き嫌いがあって、別に一品作たなければならなかった。

忙しいときには涙しながら・・・、でもこれが自分の運命と思いあきらめた。

近所のお嫁さんは皆、お義母さんが子供の面倒をみてくれ、仕事も手伝ってくれ、炊事もしてくれるという人ばかりだった。

あき子さんはそんな人たちに、

じぶんのことを話しても、分かってもらえないだろうと愚痴を話す、ということはなかった。

子供は少し大きくなったら、自分のことは自分でするように躾けた。

 

里帰りは1カ月に1度、一晩か二晩実家に泊まることができた。

義父は炊事が出来て、人の気持ちがわかる人だったので(養子)出してくれた。

実家に行けば帰りたくなくなる。

それを察して義父が言った。

「秋ちゃん、どこへ行っても同じことやき、辛抱せないかんよ」

それを聞いて、子供もできたことだし、ここが自分の家になる、と腹を据えた。

 

今でも「どこへ行っても同じやき辛抱せないかんよ、というのは義父が言うんじゃなくて、私の父が言うセリフじゃないの?」と夫との会話で出てくる。

 

結婚当初、魚のさばき方も分からず、料理の見栄えが悪かったことがあった。

義母にどんな料理かたしゆう」と言われたので、やり方を説明したら

「それは順序が違う」と言って教えてくれた。

義父も皿鉢料理を作る人だったので(料理上手ということ)よく教えてくれた。

後に

「わしの上手をいきだした」と喜んでくれた。

昔も今も、まず掃除、それから食事の支度、そのあと仕事に出た。

 

若くて何も知らない状態で嫁にきたから何事も素直に教わることができた。

 

うれしかったこと

 

義母の介護という苦労はあったが、よその嫁に比べて物には不自由しなかった。

洋服などは買ってきなさい、着物をみてあげるから持ってきてもらいなさい、などと言ってくれた。

また、子供が幼稚園に入るなどの節目の時には、有り合わせの服を着せている人が多かった中で「入園式には作ってあげなさい、布を買って来て縫いなさい」と義父母とも理解があった。

「孫にきれいに着せて見るのが楽しみだ」と言って義母は障害者年金から小遣いをくれた。婦人会の日帰り旅行へも、子供を連れて行かせてくれた。

また、義父母とも教育熱心だったので、参観日などは必ず行くことができた。

 

義父は養子にくるまで奉公にでて働いていた。

その時に、働いたお金をすべて親が先に持って帰って、自分は一銭も使えなかった。という苦労話をよくしてくれた。

だから、毎年たばこの収穫が終わると

「これは1年間働いた小遣い」と言ってお金をくれた。

小遣いをもらうことで、苦労が報われたと感じた。

 

「あきちゃんはえいねえ、苦労するけどその点はえいねえ」

と近隣のお嫁さんたちに言われた。

義父母が元気な家の同じ年代のお嫁さんたちは、義務だけあって権利がなく、

小遣いも貰えなくて里で貰っている、とよくこぼしていた。

あき子さんが全部しなければならないということで、別の意味での農家の嫁としての抑圧があまりなかったのは幸せだったかもしれない。

 

珍しいものを手土産に義姉もよく来てくれていたし、義父も

「他人に頼んでもわしの着物はいかんのじゃ、おまんがちゃんとわしの体にあわせて縫ってくれるき着れるがやき、おまんでないといかん」

とも言ってくれてうれしかった。

昔は農閑期があって、その時にみんなの着る物を縫った。

 

介護

 

義母は昭和30年1月54歳の時に倒れたという。

あき子さんはその年の11月に結婚した。

自分が年を取ってみて、その年で嫁の世話にならなければならなかったというこは、辛かっただろうと今は思う。

 

あき子さんが来た当初は寝たきりだったので、起こして、新聞を読ませるという状態だった。昼間はウトウトしているので、朝が早い。

自分の片手で顔を洗いたいというので洗面器を持っていく。

体を起こしてあげると、顔を洗い、口をすすぎ、それからご飯。

ご飯も食べさせていたが、少しずつ左手で食べる練習をして、自分で食べられるようになった。

それから、夫が部屋の中を歩く練習をさせた。

自分で松葉杖で歩いてみよう、というくらいに回復したとき、

倒れて柱で肩を打って骨折した。

それ以来義母は、歩くこともいや、と言って一日中足を投げ出して外を見ていた。

今のように入院してリハビリしてたらもっと元気になっていたのでは、と思う。

 

義母は風呂が好きで、中風になったのも風呂上りだったらしい。

寒い時には週一回ぐらいであとは体を拭いていたが、夏場は汗をかくので、3日~4日ぐらいで入れた。

風呂に入れるのは夫と二人でないとできない。

夫が風呂場まで義母を抱いていき、あき子さんが洗って着物を着せて、夫が抱いて連れて行く。

しかし、夫が忙しい時はあき子さんがひとりでした。

 

一度たばこの収穫が忙しいと断ったら、短期を起こしてお膳をひっくり返して、あき子さんにあたった。そんな時に義父がたしなめていた。

里の母には「病気だから気長うに、気長うに」と言われたが辛い時もあった。

 

冬は寒いからお昼ご飯をたべてから暖かいうちに義母を風呂に入れた。

それがすんで洗濯をしていたらその日は終わってしまう。

洗濯機のない頃は自宅でたらいで洗って、すすぎはここから200メートルほど離れた川まで持って行って洗った。

当然のことながら、手にはしもやけやあかぎれができていた。

 

昭和37年頃、義父が「洗濯がたまらんから」と言って発売されたばかりの洗濯機を、村で最初に買ってくれた時はとても嬉しかった。

それまでは本当に大変で、6人分の洗濯がすんで、田圃に出て手伝うといっても、半時間か1時間ぐらいしかできなかった。

 

義母はおしゃれだった。

病人が着るような、あげをとった着物は気に入らなかったので、きちんとおはしょりを取って着せなければならなかった。

着物を着て割烹着をして座っていたら病人には見えなかった。

化粧もしてきれい好きだった。

病人は臭いからと香水もつけていた。

美容師をしている義母の妹が髪をカットしても、着物の着付けをしても気に入らず、帰った後で直してほしいと言われた。

あき子さんは自分でないと義母の介護はできない、とうれしく思った。

 

あき子さんも几帳面だったが、義母も几帳面だった。

あき子さんが洗濯ものをほしていると、身を乗り出して

「背筋をピッと伸ばして、横にツンツンと引っ張って、手でたたいて」などと指示してきた。

 

義父母は離れで二人で寝ていた。

北と南に風が通るようにしていたから、部屋に臭いがこもることはなかった。

そのうち、床ずれができて、わら布団にした。

夜は厚いネルのおむつを重ねておけば、朝まで大丈夫だった。

しかし、昼間、近所の葬式の手伝いにいっても途中で「ちょっとトイレに行ってくる」といって抜け出しておむつを替えに帰ったりした。

義父は床ずれができると、消毒をして薬をつけてからおむつを替えていた。

 

おむつはこどものと違って大きいから物干し竿が何本もいる。

冬場や梅雨時などは乾かないので、七輪のまわりに金網を立てかけて、そこにおむつを干した。

義父と義母が床を並べて、おむつをしていたのは2年あまりだった。

 

義父は昭和46年1月83歳で亡くなった。

子供にご飯を食べさせて、いつもの朝7時ごろ顔を拭いておむつを替えていた。

布団をかぶって寝る癖があったから、

「おじいちゃん、顔を拭くよ、おむつ替えるよ」と言って、布団をめくったら冷たくなっていた。

義母は同じ年の10月70歳で亡くなった。心臓病だった。

病院にいれば、もっと長生きできたかもしれない。

 

表彰

 

模範嫁の表彰をされる2年ぐらい前から義父と義母はねたきりになっていた。

2人がおむつをしている状態で、時間が取れないので辞退したいと思った。

義父母もあき子さん以外に世話されるのを嫌った。夫の姉にさえ手を出させなかった。

しかし夫が「せっかくこんな話があるのに」と言ったのでやっと、その気になってもらうことにした。もっと苦労している人がいるのに、十分なこともしていないのに、と言う気持ちだった。

今になると本当にありがたいことだと思おうが、自分が年を取ってみると、あんなにしたらよかった、こんなにしたらよかった、と悔いる気持ちがある。

 

模範嫁表彰のことは夫も喜んでくれた。

表彰式から帰った夕方、義父母の部屋へ入った時

「おまんは今日どこに行っちょった」と義父がきいた。県庁で表彰されたことを話すと

「ああそうか、そらよかったのう」と言ってくれた。

義母は自分の病気がつらかったということもあり何も言わなかった。

 

部落の人が(村の集落のひとは自分たちの集落を部落という)お酒の樽を持ってきてくれたので、親戚の人も集まり、料理を取ってお客をした。

みんなに「おめでとう」と言われてもどう返事をしていいのか困った。

 

「私はうれしいというより嫁だから義父母を看るのは当たり前、こんなにしてもらって気の毒なという気持ちが先でした。そのときにもらった記念品は九谷焼のコーヒーカップと急須のセットでした。子供は小さいし百姓仕事も忙しい、で私としては十分な世話をしたとは思わなかった」

 

と当時を振り返った。義父母が亡くなってからも4、5年前まで「おむつをかえないかん、お風呂にいれなくては」と度々夢に見た。

結婚後、子供の具合が悪かったりして、占い師に見てもらったことがあった。

「あなたはどこへ行こうとも義母の世話をするように生まれている」と言われた。

若かったということもあるが、小さい頃から人の世話をするのが好きだったのでやってこれたと思う。

 

そして、現在・・・

 

自分の娘には私と同じような縁談があったら、絶対いやだと夫にはいつも言っている。

夫も義母のように中風にはなりたくないと食生活には気を付けている。

自分が義父母にしたようなことを、嫁や娘に期待していない。

時代が違うと思う。

60歳を過ぎて死への覚悟を考えないといけないが、子供たちには迷惑をかけないようにしたい。

今は息子たちの子育てをそっと見守っている。

娘は東京にいて女の子が一人いる。

息子はいま38歳で、嫁も同じ年だ。

 

その年頃、私は苦労の真っ只中にいた。

嫁は私が表彰されたことを知っているが、私は嫁に介護の苦労話はあまりしない。

模範嫁の精度は、今思えば有難いことだと思う。

一生のうちでこれくらい思い出になったことはなかった。

当時は自分より苦労している人がいるのではないかと、少し重荷だった。

表彰されてしばらくは、どこへ行っても「おまんは新聞に載っちょったあれやろ」とよく言われた。

義父母が亡くなって2~3年経って表彰状を眺めながら、リヤカーに乗せて近所の駄菓子屋に連れて行ったりしたことなどを思い出すこともあった。

 

自分がした介護の苦労を息子は知っている。

出来るだけ世話をかけないように健康に気を付けて、苦労をかけることがあっても短期間で終わるようにしていきたいと夫と話している。

息子と嫁が後継ぎで一緒にいてくれるから感謝している。

 

今はねぎを作ったり、縫物をしている。

孫がもう少し大きくなったら、孫の着る物を縫ってやりたい。

                                                                              (以上)

 

プロローグから読むと分かりやすいです。

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 ここまでがプロローグです。

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