昔の結婚生活を伝えたくて…
2000年に「高知女性の会」のメンバーが、
「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから
了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して
聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。
結婚
とも子さんは昭和16年にA市で生まれた。
小さい頃は体の弱い子供だった。
実家は林業も営む農家だった。
結婚した姉が住むB市に出かけた時夫と知り合った。
当時夫の両親の介護は嫁がするのが当たり前という風潮があり、
とも子さんはそれを承知で昭和43年、26歳で結婚した。
義父は昭和50年、義母は昭和52年に亡くなったので、
結婚した昭和43年から9年間介護を経験したことになる。
夫は6人兄弟の4番目だったが、
長兄は転勤を繰り返す勤め人、次男は県外在住、三男は船乗りで、
家を継いだのが夫だった。
結婚するまでは炊事、洗濯はほとんど夫がしていたという。
夫の兄弟は皆男ばかりだったこともあって、
義父母は初めてできた女の子ようにとも子さんに接してくれた。
できた人のことをこの土地の言葉で「結構な人」というが、
義母にしても夫にしても、とても「結構な人」だった。
近所の人が義父のことを「おんちゃんは仏さんみたいな人や、自分が損することがあっても、他人に憎まれるようなこともなく、他人のものを取ってくるようなこともしない」とよく言っていた。
夫の家は店を営んでいた。
嫁ぐ前、とも子さんは客商売の経験はなかったが、
客への対応は特に問題なかった。
しかし、商売のことは何一つわからず、
結婚当時は全て夫に「おんぶに抱っこ状態だった」という。
「病気の両親がいなかったら、私はとっくに暇をもらって帰っているね。病気の両親がいたばかりに、私家政婦だったね」と今でも冗談交じりに夫によく言う。
また、親の介護はどこの家でもしていたとも友子さんはいう。
生活
昭和43年の結婚当初から、ガス、水道、電気、二層式の洗濯機があった。
しかし、当時の二層式洗濯機では、ネルの着物などは回らなかった。
そのあと新しく買った洗濯機では回るようになったが、
古い洗濯機も捨てがたく、2台とも使って洗濯していた。
出産
昭和45年に長女が生まれ、2年後に長男が生まれた。
長女が生まれた時は、義父母も一緒に写真ととったり、
車でお宮参りにも行ったが、長男の時にはそのようなことをした記憶がない。
義父母はもう子供を抱くどころが、自分自身も支えられない状態になっていた。
友子さんが出産で病院や助産婦さんのところに行っている間の
約1週間だけは、
高知にいた。
その間、義兄の妻が義父母を看に来てくれていた。
炊事もしてくれたため、とても助かり安心できた。
しかし退院して帰ってくるとその晩から友子さんは立ち働き、
産後もゆっくり体を休める暇はなかった。
しかし、3人目の子供が生まれた時は、産後の容態がとても悪く、
その時は義兄の妻2人が帰るに帰れず、交代で2~3日家にいてくれた。
子供・教育
長女が生まれたころは、昼間店員を雇っていたが、長男の時はその店員もやめていた。
そのため、長女は3歳、長男は2歳から保育園に行かせた。
長男は2700グラムで生まれて、体も小さくてかわいそうだったが、仕方がなかった。
長男出産から5年後に、3番目の子供を産んだが、この子は2歳から1年だけお守さんに預け、3歳から保育園に行かせた。
この頃には義母は亡くなっていたが、
その分、結婚当初より店が忙しくなっており、パートで店員も雇っていた。
友子さんは子供たちに「お母さんには僕らよく怒られた」
と今でも言われることがある。
当時も、友子さんは子供に「お母さんは私たちを怒っているときと、お店にいるときと全然違う」と言われびっくりしたことがある。
そんな時は
「お客さんには腹立てていくわけにはいかんろう?あんたたちを怒りよってそのままの顔でお店にいったら、お客さんにおばちゃんは怖いって言われて、あんたらはご飯をたげれんようになるやろ?」と言ったものだった。
怒る時は子供にだった。
「結局あたるのは、子供よね、かわいそうやったね」
と当時を振り返って言う。
3人とも素直に育ってくれたことが、友子さんには本当に救いだった。
介護
友子さんが結婚した当時から、義父母は寝たり起きたりの生活だったが、
義父が義母の手をつないで辺りを散歩に行ってくれるような状態だった。
その頃はお店をし子育てしながらの介護でも、まだ手が掛かるということはなかった。
義母は最初の頃からほとんどおむつを使っていた。
勿論紙おむつなど当時はない。
義父が義母を抱えて散歩に出ていたころはおむつをしていなかったが、
失禁はしていた。
朝起きると「廊下がべちゃべちゃ、布団も勿論ボタボタ」ということもあった。
しかしやはりおむつは嫌がった。
おむつをしても、片方の手で全部外して投げてしまった。
おむつを全部外してしまうのは痴呆の人の習性だと、
今は本にかいてあるが、当時は知る由もなく、
また、いつも痴呆の状態でいるわけでもない。
痴呆の状態なのか、そうでないのか全くわからないこともあった。
ベッドは下に落ちる危険性があり目が離せないため、
義父母はずっと布団をつかっていた。
子供は長女・長男とも1歳ぐらいになるとほとんどおむつをしていなかったため、
子供のおむつと大人のおむつの世話が重なっていた時期はそんなになかった。
大人のおむつは子供のと違い、厚手でなければならない。
そのため、ネルのおこしの広いものをかってきたり、古くなったネルの着物や何度も洗って毛がなくなったような毛布などを切って使った。
乾きが悪くなるので縫い合わさずに使った。
洗濯も、子供のものとは違って厚さがあるだけに大変だった。
着物も大きい、しかも今のように全自動ではなく二層式である。
大便などの汚れが落ちない時はあっさり捨てた。
「今はもう、思い出したくない。」と言う。
昼間は何度おむつを換えても平気だったが、夜はつらい。
子供は夜9時頃に寝かしつける。
友子さんが宵のうちから子供たちと一緒に寝る、ということはなかった。
一度布団に入ると、起きるつもりでも寝過ごしてしまうこともあるため、
炬燵に入って子供たちの保育園のスモックにアイロンをかけたり、
編み物をして時間をつぶし、深夜1時ごろにおむつを換えてから寝た。
そして朝は6~6時半ごろに起き、おむつを換えるという毎日だった。
睡眠時間は短かったが、そうかといって昼寝ができるような状態でもなかった。
子供を保育園に行かせても、こんどは店がある。
そんな生活のなかで、大きな病気もせず元気にやってこられたのは
「やはり若さがあったからだ」と言う。
義父母の介護にヘルパーを使ったことはまったくなかった。
友子さんは店の商売などで忙しいこともあり、義父母のためにあまり手が回らず、
行き届いた介護ができないことに申し訳なさを感じていた。
ある時民生委員が病院へ入れたらどうかと、話を持ってきた。
義父にどうしたいか聞くと「ねえ(友子さん)がかまわんかったら、おいてくれや」
「満足いくようにできんけど、私の今のやり方でかまわんかったら、おってもええよ」
と友子さんが言うと、義父は「やぱり家におりたい」と言った。
そして義父母とも、家でくらした。
義母は友子さんの結婚当初から風呂に一人で入れるような状態ではなかった。
介護に適した設備のある風呂ではなかったので、友子さんが後ろから手をまわして抱きかかえ、友子さんの足で義母の足を押しながら風呂に入れた。
友子さんの身体は小柄なほうだが、義母もそれほど大柄ではなかったから、それも可能だったのだろう。
友子さんが一人で、義母の風呂の介助をしていたが、最後のほうは、夫にも少し手伝ってもらっていた。
義父は結婚当初、比較的動けた。
そのため、痴呆が始まってからは、夜も安心して休めない時があった。
風呂に入れて寝かせても、深夜、音がして見に行くと義父が
「風呂に入ってない」と一人で入っていたことがあった。
汚れものの洗濯をするために、翌朝ふろの残り湯があると便利なので、
湯を捨てたくはなかった。
しかし、義父が深夜に風呂に入ろうとするのが、湯を出す音でわかるようにするために、風呂の栓を抜くようにした。
義父は太ってはいなかったが、体格がよかった。
体の自由がきかなくなってからは、夫が義父を風呂場に連れて行き、
友子さんが洗った。
義父が全部こちらに身を任せてくれれば風呂に入れやすいのだが、
ふとした拍子にひっくり返されてはと警戒するのか、
片手で持たなくてもいいところを持ち、
余分な力を入れるため、かえって危なかった。
義母はスムーズに入浴介助できたが、義父の時はなかなか難しかった。
一晩に義父母と子供を入れると、本当に倒れそうになる。
義父母を一日交替で入れることもあった。
今のように遅くまで店をやっていなかったので、
毎晩夫が子供を風呂に入れてくれた。
夫が先に入って、体を洗い終わったところへ子供を入らせる。
皆が出てから友子さんが入った。
友子さん自身は湯につかるのではなく、ちょっと浴びる程度で、
のんびり入ったことなどない。
それでも気が張っていたのか、冬でも風邪をひくことはあまりなかった。
情けないこと
店は月に一度休みがあり、その日は必ず夫や子供たちと実家へ行った。
その時には、いつも必ずみんなで朝ごはんを済ませた後、
義父母の昼の食事を用意してから出かけ、午後2~3時ごろには帰ってきて、
夕方の商売をした。
義父母が痴呆になり始めた頃のことである。
その日も、いつものように義父母の昼ご飯を用意してでかけた。
帰ってくると、義弟が来ており
「親に昼飯も食わさんでどこへ行っちょったが」と言う。
びっくりして夫が義弟に事情を聞くと、
「昼飯を食べてない、腹が減ったって言うから、食堂から丼物をとってたべさせた」
と言うのだった。
自分の手で食べられるとはいっても、寝たきりのような人がいるのに、昼ご飯の用意もせずに出ていくわけがない。
その時初めて、
「ああ、これが義理の嫁と子舅の仲やなあ」と思った。
次からは、朝みんなで食べて片づけた後、用意した昼ご飯を食台におき、
かぶせた蠅帳の上に「昼の食事」と書いた包装紙を付けて行くことにした。
もし外の誰かが見ても、「お昼の食事を食べてないと言っているけど、昼後はを用意して行っているじゃないか」とわかるようにするためだ。
自分の気慰めからだが、それをし始めてからは一度も言われたことはない。
食事を用意せずに出かけるわけないのに、
義弟に食堂から出前をとって食べさせたと言われたのは、
「ほんとうにつらく、一番なさけないことだった。」
つづく