昔の結婚生活を伝えたくて…
2000年に「高知女性の会」のメンバーが、
「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから
了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して
聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。
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ちか子さんの生まれ
ちか子さんは昭和11年にA県で生まれた。
三歳の時に空襲にあい祖母のいる今の実家に帰ってきたが、当時は言葉が違うせいか、「よその子や」といじめられた。
実家と婚家は同じ地域にある。婚家の近所に公会堂があるが、その横にあるパーマ屋がちか子さんの実家である。
結婚するまで漁業とは無縁の生活だった。
母は「大きくなったらあんたもパーマ屋へ行き」と言ったが、ちか子さんは
「3年もよう辛抱せんかもわからんけん」と、パーマ屋ではなく呉服屋で働き始めた。
そこで10年間勤めた。
出会い
漁師と結婚するとは、まったく思っていなかった。
空襲から少しして、父は48歳の若さで亡くなった。
母には兄弟がおらず、祖母が亡くなってしまうと一人きりになってしまう。
そのため、自分がそばにいれば少しは心強いではないだろうかと思い、ちか子さんは町に残ることにした。
ある日、夫の親戚がちか子さんに写真を送って来た。
夫は8人兄弟の長男である。
「苦労するけん、そんなところへは嫁にいかれんでよ。」と母がいい、
ちか子さん自身もはじめは嫌だったと言うが、
母のことを思い、やはりこの結婚をすることにした。
今は母も亡くなり、実家は妹が後をとっているが、当時から妹が後を取っていれば、
他の人と結婚していただろう、とちか子さんは思う。
結婚
結婚したのは昭和38年、ちか子さんが27歳のときだった。
結婚式は3時ごろから始まり、夫の家で祝いをした。
ちか子さんは着物を着て、母が日本髪を結ってくれた。
「それが一番の思い出だ」と言う。
夫の兄弟や隣近所が集まって、夜の12時まで飲んでいた。
初日だけちか子さんは座っていたが、翌日からは親戚だけで集まって飲んだ。
2日目からは日本髪をやめ、ウールや木綿の着物を着た。
新婚旅行はなかった。
出始め(近所への挨拶まわり)が3日目だった。
義父たちには結婚してからずっと「ちか子、ちか子」と名前で呼ばれた。
生活
結婚当初、ガスはあったが、水道はまだ引いていなかった。
いつから水道になったか覚えていない。
当時は近所の井戸から水を汲み、天秤棒で運んだ。
体重が48キロの小柄な身体だったので、重い水を運ぶのはとても大変だった。
運んだ水を家にある大きな瓶に移して、それを炊事や風呂の水として使っていた。
また、井戸で米を洗ったり洗濯をしたりしていた。
1日に何度も家と井戸を往復した。
家の風呂は結構大きいものだった。
水をバケツで8杯は入れなくてはならない。
義兄弟は皆近所にすんでいたため、そのうちの2~3人は家族を連れて風呂に入りにきた。
ちか子さんは最後に風呂に入るためほとんど湯がなく、
しかも濁ったような状態だったこともある。
苦労して水を入れた風呂でも自分が入る時にはこんな状態で、
思わず泣いてしまったこともある。
結婚当初はいろいろなことに対して涙が出た。
夫の家族の多さにも戸惑った。
義祖母、義父母、そして8人兄弟。
帰りたい、嫁に来なければよかったと何度も思った。
しかし、子供のためにと我慢した。
「子供がおらんかったら、いんどったかもしれん、こんなにづつないとはね」
とちか子さんは言う。
結婚する前は、義祖母の状態などは何も知らなかった。
その当時、義祖母は小さい家を建てて、そこに一人ですんでいた。
昭和49年に新しく今の家に建て替え、それから義祖父母とも一緒に住むようになった。
ローラーで絞る洗濯機はあった。
義祖母がおむつを使うようになってからは、おむつの匂いが他の洗濯ものにつかないようにするために、おむつ用にもう一台洗濯機を買った。
出産
結婚してすぐ子供ができたが、無理がたたって流産してしまった。
しかしそれから約1年後の昭和39年に長女が、41年には長男、44年に次女が生まれた。
長女のときは陣痛がくるまで働き、助産婦さんを呼んで家で出産した。
実母が来て炊事などをしてくれたため、産後20日くらいは休むことができた。
長男と次女の時は病院で出産した。
入院中も付き添いなどはいないため、4日もすると洗濯などはしなければならない。
また1週間ほどで退院して、帰ってきたら、すぐに仕事をしなければならなかったため、ほとんど休めなかった。
当時義祖母は、離れの小さい家に一人で住んでいた。
「痛い、痛い」と言いながらでも、自分でご飯を炊いたりおかずを作ったりしていた。
ちか子さんが出産のため入院していた時は、義兄弟がおかずを持ってきてくれたり、夫や義父が義祖母の面倒を看てくれた。
出産後、子供に服を着せたり、ご飯をたべさせたりといったことはちか子さんがしたが、子供を風呂に入れるのは夫がした。
夫は夕方5時か6時には漁から戻って来たからである。
漁業の仕事
3人の子育てに追われた時期は、沖に出たりはしなかったが、漁の餌作りを手伝っていた。
夫は主に「赤もん」といわれるビタやレンコといった赤い魚を釣りに行っていた。
「せいろ」というものに釣り餌を付けるところがあり、そこに餌を付けて行くのだ。
漁に出る前の朝3時半から餌を付けるのを手伝っていた。
結婚当初は義父と夫が餌付け作業をしていたが、義父が寝込み、夫が一人で漁に行くようになってからは、ちか子さんがひとりでした。
当時は量は少なかったというが、メジカ漁にも行っていた。
今は袋に入った餌用のイカナゴやシラサを3~4つの箱に入れて持って行った。
毎日20束ほど入っているひと箱の素麺を茹でていた。
使う鍋は大きめだったが、一回では湯がききれず、何回も湯がいた。
毎日ちか子さんは朝3時に起きて弁当を作った。
夫たちは朝ご飯を食べずに出るため、朝食と昼食の2回分の弁当だ。
前日に作って干しておいた餌を持った夫と義父が、3時半には家を出る。
それからちか子さんは素麺を湯がき始め、子供たちが置きだすと子供を背負いながら、餌付けや餌作りの作業をしていた。
忙しいときには義母に「この忙しい時に乳やって」と怒鳴られたこともあった。
漁業のことは何も知らなかった当時、何をしていいのかもよくわからず、
つらい日々だったという。
子供が学校へ行くようになると少し楽にもなったが、子供が小さい時分は子供を背負いながらの作業となり、特に2番目に生まれた長男は体が大きく、小柄なちか子さんには重くてとてもつらかった。
漁師は朝が早いため、夜寝るのが早い。
4時か5時ごろに漁から戻ってくるが、夕方5時には晩御飯を食べ、
夜の7時か8時には床に就いた。
そうしないと体がもたないからだ。
幸いなことに結婚後今まで、
暴風雨などで、ちか子さんや夫が怖い目にあったことはない。
現在は10日のうち7日漁に行けばいいほうだが、そんなことは滅多にない。
よく行って5日ほどだ。
漁に出てない日は、夫は道具を作ったり、体を休めるために寝ていた。
夫の漁は網ではなく一本釣りだ。
また7月ごろになると、マツイカを取りに行く。
今でも家に大きな冷蔵庫が2つあるが、その中に冷凍保存したイカを入れている。
PTAなどの活動
子供が学校にいくようになると、PTAの会や役員会などがある。
しかし、義父に「そんなところに行かんちかまわん」と怒られ、
めったに行くことができなかった。
参観日にもめったに行かなかった。
そのため学校でいろいろな人と話をするという息抜きは、ほとんどできなかった。
子供が大きくなったころ、役員になったが、その時には困ったこともあった。
しかし、夫は理解があったので、研修旅行にも義父に言わず夫に言って、
3回ほど参加した。 続く・・・