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結婚ってなに?~模範嫁と呼ばれた女たちの実録・・・弱い立場

👆こんな時代の話です

 

「模範嫁・優良介護家族」という表彰制度を設けた高知県では

1970年~1992年の間に合計218名の

(寝たきり老人の介護に心身ともにつくしている模範的な嫁)を表彰しました。

2000年に「高知女性の会」のメンバーが模範嫁を訪ねて聞き取り調査をしました。

その小冊子を転載します。(筆者もメンバーの一人でした)

 

7、まとめ

 

模範嫁たちの話を通してはっきりわかったことは、介護が嫁の仕事以外の何物でもなかったということである。

当たり前のようであるが、この事実は重い。

夫も、その兄弟姉妹も、介護される人も、家族全員が、介護は嫁がやることと思っていた。

嫁自身もそう思っていて、義父母と同居した時から「お世話せないかんもんだ」と思っていたし、介護は「大変だったけど、若かったからできたんです」と振り返り、宿命として受け入れてきた。

しかも、嫁たちは介護だけでなく、育児、家事の他に稼業の農業や漁業、自営業なども一人前に働くことを要求されていた。

そのことは、表彰状の文面にもあらわれている。

「表彰状 〇〇〇〇殿 あなたは今日まで稼業に精励されるとともに長年にわたって病床にある御母堂(あるいは御尊父)の介護に献身的に尽くされました行為は他の模範とするところであります ここに敬老の日にあたり記念品を贈り表彰します 昭和〇〇年9月15日 高知県知事〇〇〇〇」

 

表彰について

 

高知県資料集には、夫や親を介護した嫁を表彰する藩主の話が幾つか載っている。

この表彰制度は、嫁に介護の宿命を負わせるという、「日本型の介護福祉」の典型を表しているののであろう。数百年にわたって嫁が介護をし、お上が表彰してきた。

 

私たちが最初に感じた、「表彰するなんてひどい」といった感想は、行政がやるべき手を打たずに、封建時代と同じように介護を女たちの肩に負わせることですませていることへのおどろきだった。

しかし、模範嫁たちの話を聞いているうちに、この方たちはせめて表彰されて良かった、と感じるようになってきた。介護はあまりにも当たり前に嫁の仕事であり、せめて表彰がなければ報われることはなかったであろうからだ。

 

生きている家制度

 

戦後、日本の旧い家制度は崩壊し、特に1960年以降の高度成長は、痴呆から都市部へ働き手がどんどん出ていき、家族の形態や意識も急激にかわってきたと言われている。

しかし、今回の調査は、日本の男系中心の家制度が今も生き続けているということを雄弁に物語っている。

なぜ、介護は嫁の仕事なのだろうか?男女の性別役割分担が明らかな家制度は、家事を女の仕事としてきた。その中でも介護は、家の中で最も弱い立場にあるものにさせる、つまり嫁の仕事であると決められていた。

 

模範嫁は、誰もが介護を「当たり前のこと」「誰もがやっていること」と答えた。

誰にとって当たり前なのかと言えば、「嫁にとって」なのであり、決して「夫にとって」とか「息子にとって」ではない。

長男が家を継ぐという家制度から言えば、介護は長男の嫁の仕事であるはずなのに、今回の調査では、12名のうち4名、つまり、3分の1は長男のよめではなかった。

「昔から決まっていた」と言われる家制度といえども、都合が悪ければいくらでも変更があるということを示している。

 

今回の調査では、改めて介護への夫の関わり方が非常に少ないことを明らかにした。

「家事は女の仕事だ」「男を(家事に)使うな」という性別の役割分担意識が、介護を女の仕事として当然としている。

もちろん、心情においては、「夫が(私の苦労を)見ていてくれた」「夫はわかっていただろう」などの発言は得られた。しかし、具体的に介護の場面で夫の介助が得られたのは、風呂場に連れて行く、トイレに連れて行く、おむつ交換の時に身体をささえていた、だけであり、風呂に入れる、おむつを交換するなどの介護行為は全くない。

 

性別役割分担意識の悲劇

 

男女の性別役割分担は、夫と妻を分断する。

夫というパートナーがありながら、模範嫁たちはたった一人で孤独に介護とむきあわなくてはならない。

家族の中で、老人は介護が必要で、子どもはまだ幼いという時、健康で動ける大人は夫婦だけである。

こんな時には「夫もやったらいいじゃないか」という単純な思いが湧いてくる。

家事と育児と介護は女の仕事、という思い込みがどれほど夫婦を共に不幸にしたかは、たか子さんの例にある。

 

たか子さんは、「夫は飲みさかっちゅうし」と言い、その理由は「育児と介護でぼろを着て髪振り乱した嫁さんより、外にはきれいな女の人もいっぱいおろう」と言う。

しかし、この夫は十分に妻の苦労をねぎらっている。

夫としては、家事も育児も介護も禁止されていたら、妻が苦労している所へ帰ってもどうしたらいいのか。

手助けできないとしたら、育児と介護で奮闘する妻のそばで、それをじっと見ているのは楽しいことではあるまい。

誘われたら、それは喜んで飲みに行くであろう事は想像しやすい。

決して飲みたいだけ、きれいな女の人がいるからだけ、の理由ではないのではないか。

 

「男は家事をしない」「男は家事をしてはいけない」という暗黙の決まりは、男が家事への手出しを禁止されていることではないだろうか。

たか子さんの夫は、妻の手伝いをして良いのなら、手伝いができる生活の技術があったら、そのような常識が世の中にあったら、妻の助けをしたのではないだろうか。

しかし、そうすることはできなかった。

それが男女の性別役割分担の決まりの中で生きる「愛情」の限界である。

これはたか子さんのケースだけではない。

どんなにやさしい夫であっても、性別役割分担の中に生きている、どんな夫婦にもあてはまることである。

つまり、日本人の全ての人に当てはまることなのである。

 

例えどんなに思いやりがあっても、家庭の中にあっては具体的な行為がない限り、思いやりがあることにはならない。

具体的に家事をして役に立つことで、家庭での愛情は初めて機能すると言えるのだ。

 

思い込み、古い価値観に支配されて、夫婦が夫婦として機能することが難しかった。

 

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