いつも、何かをさがしてた。

高知に住んでるおばあさんの日記

【漁師の嫁ちか子さん】義祖母、義父の介護と若すぎる義母の死

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昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 

 ↓【漁師の嫁ちか子さん】は3部作です、こちらからお読みください👇

chizukoike.hatenablog.com

 

 

 義祖母の介護

 

義祖母は、ほとんどおむつを使っていた。

ネルの寝間着や浴衣の古いものなどを破って作り、おむつにしていた。

おむつを替えるためにちか子さんは夜何度も起きなければならなかった。

ビチョビチョになっているときもあった。

そのため布団の上に、ナイロンと、その上に古い毛布などを敷いて使っていたが、そのナイロンや毛布なども何度も変えた。

 

義祖母に痴呆が始まると、自分でおむつを外してしまうようになった。

義祖母はトイレには自分で行くという。

少しずつ歩いていくが、どうしても漏れてしまい、落としながら行くことになる。

しかしそれを言うと怒りだした。トイレでも汚してしまう。

どこもかしこも拭いて回らなければならないことが、何度かあった。

 

そんな時義父は義祖母に「そんなことしちゃいかん」と怒っていたが、

義父が平成元年ごろから寝込み、痴呆が始まると、義父も同じことをした。

 

当時は行政などによる入浴サービスの制度はなかった。

体を拭いたり、歩くことはできたので、風呂まで行ってイスに座らせ、

体を洗ったりした。義祖母には床ずれができており痛々しかった。

 

家を建て直して何年かたった頃、義祖母が度々意識をうしなうようになった。

「こりゃ、いかん」と医者を呼び、寝付かせるとすぐ治った。

わからないような状態になることが再三あった。

 

また、こんなことがあった。

夜の12時ごろに実家の妹から「ちかちゃん、知っちゅうかえ」と電話があり、

聞くと「おばあさんが家の前に来て、ちか子、ちか子、よびゆうで」と言う。

 

その当時2階で寝ていたので、義祖母が出て行ったことに全く気が付かなかった。

「しらんでぇ、ほんならみてみる」と夫と見に行くと

杖を持った義祖母が実家の入り口の前に立っていた。

杖をつきながらやってきたのだろう。

それで、2人で義祖母を支えながら帰って来た。

知らないうちに義祖母が出て行ったのは、このときだけだった。

 

 普段の義祖母は長い距離を歩くことはできず、

外に出るころはあってもせいぜい家の前ぐらいで、

そんな時はずっとそばについていた。

だから、まさか鍵をかけている戸を開け、歩いて出ていくとは思っていなかった。

痴呆による徘徊だったのかもしれない。

普段は歩けなくても痴呆の状態では歩けたのは、不思議だと今でも思っている。

 

義母の死

 

最初、義祖母が入院し、義母が付き添いをしていた。

義祖母は「痛い、痛い」と言いつつもよくなったが、

今度は義母が心臓の病気で入院した。

妹がB市にいたため、泊まらせてもらったこともある。

 

しかしちか子さん夫婦は義母の死に目に会えなかった。

その日夫は病院に行っていたが義母の気分が良くなってきたということで、

家に帰った。

ところが、夫が帰るなり病状が急変して義母は62歳で亡くなった。

 

義父は頑固な人だったので、義母もいろいろ無理を重ねてきたのだろう。

また、8人の子供を産むことだけでも大変なのに、学校へ行かせて育てていくことは

どれほどの苦労があったかは計り知れない。

 

義母が倒れて亡くなってからは、ちか子さんが義祖母を看た。

義祖母が毎日「痛い、痛い」としきりに言うのを聞いて、とてもつらかった。

痛み止めもなく、揉んであげたりしながら

「どうしたら治るだろうか」と思っていた。

 

義祖母の死

 

昭和53年に義祖母を看取った。

結婚して夫の家に来た時、義祖母は既に「痛い、痛い」としきりに言っていた。

結婚当時82歳だった義祖母は、97歳の時に老衰で亡くなったが、

最後の方はトイレにも行けなくなっていた。

 

仕事

 

義母が早くに亡くなっていなければ、もう少し楽だっただろうと当時を振り返る。

実母は86歳で亡くなったが、義母もそのくらいまで生きてくれていたら、

子供をみてもらえたり、ご飯を作ってもらえたりもしただろう。

そうすればちか子さんも働きに行けただろう。

しかし、現実には働きになど行けなかった。

 

ちか子さんが働きにでたのは義祖母が亡くなった後だ。

長女が美容師の学校に行き始めたこともあって、

お金を作るために鰹節を作る会社に7年間勤めた。

その時は8時から5時まで働き、帰って来てすぐ義父のご飯を作った。

仕事が遅くなる時もあったが、そんな時は夕食が少し遅くなることも辛抱してもらった。

子供にお金がかかるし、かといって義父にそのお金を出してくれというわけにもいかない。それは理解してもらった。

 

 

義父の介護

 

義父は元気な人で、所有している小さな船に乗って餌を持ち、沖へ漁に出ていたが、

70歳の時に引退した。平成元年ごろだった。

 

義父は布団の上で倒れ、入院した。

ちか子さんは泊りがけで看病し、義兄弟も初めの頃は2日ほど泊まってくれたりした。

しかし義父が入院生活を嫌ったため、1カ月ほどで家に戻った。

そして再発し、4年間寝たきり生活となった。

 

義祖母と義父をほとんど一人で介護した。

「義兄弟ゆうてもやっぱりあてにならんもんね。くちばっかりで、いわれんけんど」

と笑う。

夫の兄弟のうち2人はA県にいるが、他の兄弟は高知県に住んでいる。

ただ,末の義妹は、義父をよく見に来てくれた。

 

「自分の言うことを聞いてくれんと思ったんかもしれん」と当時を振り返る。

しかし小柄なちか子さん一人では、義父の要求を全てこなすのは難しいことだった。

義父は亡くなるまで太り気味で、とても重かった。

抱きあげることなどとてもできなかった。

 

義父が寝込んだ時もおむつを使った。

最後の2年は紙おむつを使っていた。

夫や義兄弟は義祖母や義父のオムツを換えるときなどは、

抱きかかえるだけはしてくれた。

1人でおむつを換えなければならない時は、

まず義父を横に寄せ、おむつを敷いてから、義父を元の位置に戻す、

というふうにやっていた。

そうやって、何度もおむつを換えた。

夜中に何度も起こされるので、義父の近くで眠っていた。

 

1人では体の大きな義父を入浴させられないので、市の入浴サービスを利用し、

月に2回ほどきてもらった。

最後のほうになると、義父はどこかへ行きたかったのか、

歩けないのに這い進んで外へでたりしていた。

そんな時、夫と一緒に義父を家に連れ戻した。

 

夫は海が荒れない限り漁に出るため、日中はほとんど家にいなかった。

それは、ちか子さんにはとても切なくつらいことだった。

義祖母も義父も、ちか子さんが一人でかかえるには重かったので、

おむつを換えるときなどは手間がかかった。

 

義兄弟が帰って来た時には、抱きかかえてもらっておむつを換えたりもした。

実娘もA県から義父の介護を手伝いに帰ってきてくれたが、

実娘にも勤めがあり、帰らせたくないけど、仕方がない。

実娘がA県に帰る時が一番悲しく、泣いて別れたことが何度もあった。

 

義父はお酒を飲んだ時などは「この子はええ子や、ええ子や」とほめてくれもした。

倒れるまでは、ひどく怒ったり命令口調になったりということも、

あまりなかった。

「それやけん、私もおれたんやろう」と言う。

 

義母も義父母もそんなに怒ったりはしなかった。

しかし義父は倒れて寝たきりになると何かにつけ、よく怒るようになった。

時には杖で座布団をパンパン叩き、イライラや怒りをぶつけていた。

ちか子さん自身も杖で叩かれたことがある。

 

義父はちか子さんが外にいて自分の声が聞こえなかった時や、

またおむつを換えるときなどに怒ったりしていた。

義父が怒った時期は亡くなる少し前が一番多かった。

しかし、義父が亡くなる時「すまなかった」と言ってくれたに違いないと、

ちか子さんは思っている。

 

義父が亡くなってから8年になるが、今でも当時の様々なつらさを思い出すと、涙が出てくる。                       つづく