ちょっと前の介護「模範嫁を訪ねて」・・・介護の実態
高知県だから、というのもありますがちょっと前の日本人の暮らしの原点のようなものが垣間見られると思います。
「模範嫁を訪ねて」の聞き取り調査ははじまったばかりです。
介護の実態
介護は主に義父母を対象にされるが、義祖父母、義祖母の介護をした人もいる。
介護の期間が続いた年数は、最短7年、最長41年。10年未満3名、10~19年6名、20年以上3名である。
その間2人以上を同時に介護していたのは、半数の6名である。
他に関節リューマチや、晩年になってからの痴呆もあげられる。
介護の工夫
・衣服…上下別々の着物を作る。袖通しが楽になるように、和式寝間着、はんてん、ちゃんちゃんこの丈をみじかめにする。着脱簡単なスナップ止めワンピースを着せる。
・寝床…木でベッドを作ったり、木箱を床に置いた上に厚板を渡し、畳を乗せてベットの代用品を作る。
・布団に汚物がつかないよう、シーツでくるんだり、ナイロンと毛布を敷く。
おむつ…11人が使用。当時は紙おむつがなかったため、おむつを作るのに、古い浴衣、木綿、ネルなどを使用した。
おむつ使用の他に、夜間のみおむつで昼間はおまるや尿瓶を併用した人もいた。
梅雨時などにおむつを乾燥させるのに、七輪に大きな網をかけて、そのうえで乾かす工夫もしている。紙おむつを使用した人は、最近まで介護をしていた2名のみである。
・トイレ…当時はほとんどの家庭では外にあったので、ベッドの腰にあたる部分に穴をあけて、下で排泄物を受けるようにしたり、腰掛を作り、その下に排泄物をうけるものを入れるという工夫をした人もあった。
・食事…食べ物は、柔らかいものを出すことが多い。固いものは細かく刻む。一番美味しいところや好物を出すなど、気を遣った。
仕事や用事があって外出する時は、お弁当を作ったり、お茶を用意して出かける。
自分で食べられない人の食事の介助はもちろんだが、麻痺が出ていないほうの手を使って食べる練習などをさせたた人もいる。
風呂…浴槽が深く、入浴させるのは難しかったので、風呂場まで抱えて行った。
洗い場で体を洗うか、清拭をすることが多かった。
風呂場までの移動は夫が手伝ってくれる人もまれにいたが、ほどんどは一人で抱えてくことが普通であった。
夫の手伝い
・ 出産後1週間は家事、介護をした。
・ 出産後1カ月位は重い物を持った。
・ 出産時、先に生まれている子供たちの面倒を見た。
・ 時々子供のおむつを洗うなど子供の世話をした。
・ 子供を風呂に入れた。
・ 出産のため入院中、義母とともに被介護者の面倒を見た。
・ 被介護者のおむつ交換の時に夫が家にいれば手伝った。
・ 被介護者の入浴介助(一緒に風呂場まで抱えた)
・ 被介護者の歩行訓練を手伝った。
・ 無理をしてでも家電製品を出始めに買った。
・ 頼めば重いものを運んだ。
・ 食後の洗い物をすることもあった。
・ 時々おかずを作った
中には義父母が「男を使うな」と夫が手伝うことを厳しく禁止したり、夫自身が介護や家事は「女の仕事」と言って、一切かかわらなかった例が3件ある。
夫の家族との関係
・ 義父母共、家事、介護、育児は男にさせるものではないと考えており、嫁一人にやらせても疑問に思わなかった。
・ 義父は寝込むようになってから、よくおこるようになった。
・ 義父はよく「すまんのう」と言っていた。
・ 義父母が義兄弟に嫁のことについて愚痴を言った。
・ 義父が介護する嫁の大変さを思い、家電製品を早くに購入したり、「たまらんのう」と声をかけてくれた。
・ 義父が農産物の出荷後、収納代金が入ると小遣いをくれた。
・ 義母が年金から孫のために「何か買ってあげなさい」とお金をだしてくれた。
・ 外に勤めに出たいと言ったら、義父母も夫も「そりゃえい事じゃ」と反対しなかった。
・ 義姉が模範嫁に推薦してくれた。
・ 勤めに出ている昼間は義姉や義妹が義母を看た。
・ 結婚当時1歳年下の義妹が同居していたが、家の手伝いはしなかった。
・ 義妹が義母の晩年2年間を付きっきりで看た。
・ 義弟が県外の大学に行くために、昭和50年前後に月5万円の仕送りをした。
・ 義兄弟の妻たちが出産のときに、義父母の世話や食事を作りに来た。
・ 義兄弟が介護の手伝いはしないのに、口出しはした。
・ 義兄弟は義父母の世話は嫁がやって当たり前と思っていたのか、ねぎらいの言葉はなかった。
子供との関係
入学式、参観日、卒業式など、子供の学校行事は、子供の成長の節目として、どの親も楽しみにしていることが多いが、介護中となると、無条件で出席できるものではない。
家族が行くように言ってくれるか否かで、出欠が決まった。
出席した人は、義父母が教育熱心で、学校行事に参加することに理解があった。
妻の代わりに夫が参観日に出席、こどもがかわいそうだから少しの時間を見計らって行ったなどである。
欠席した人は、義父に「いかんでもいい」と言われたり、子供より介護を優先させた。
子育て中に介護が重なった人が心配したのは、介護に手を取られ、子供に十分関われなかったために、非行にはしらないかということである。
「いろんなことでつかれていたから、当たれるのは子供だけだった」
「よく、子供を怒っていた。しかし、素直に育ったのだ救い」と語った。
いつまで続くかわからない介護で疲れ果ててのことであろう。
子供にあまり手がかけられないため、
小さい頃から「自分のことは自分でしなさい」と躾けたり、また、子供自身も
「自分のことは自分でしなければ」と自覚して協力したり、成長した子供が家事や介護を手伝うこともあった。
例)老人洋上大学出席時、娘が義母を看てくれた。
義父の葬式の手伝い(義母の世話など)を息子がしてくれた。
嫁として
嫁として義父母から名前で呼ばれたのは、7人。
その他は主に「ねえよ」「ねえ」とよばれていた。
「おまえ」と呼ばれた人もいる。
当時の「嫁の定義」を模範嫁たちからの言葉からあげてみよう。
・ 義母の里で働いていた時、その働きぶりを見込まれた。
・ 義父母の介護は長男の嫁の宿命。
・ 結婚したばかりの頃、近所の婆さんが義母に「嫁は看てもらうためにもらうんじゃけえ、その辺を嫁にいうとかないかん」と言った。
・ 義母が「嫁が来たから人手はある」「ねえが来たから蚕でも飼おうか」と言った。
・ 嫁は動労力。
・ 私は働きバチでもよ。
・ でも、それが(介護や重労働を嫁がするのは)とうぜんですものね、昔は。
・ 病気で寝たきりの義父母がいたために、家政婦だったね。
・ 夫の両親は嫁が介護するもの。
・ 忙しいが、嫁の勤めと思い、大変とは思わなかった。
・ 子供が生まれたら、ここが家になると自分の腹に据えた。
以上のことから、当時の家族の中で嫁の立場がみえてくる。
また、「なぜ介護をやり遂げることができたか」という問いには、
次のような回答があった。
・ 自分がするよりしかたがない。長男の嫁の宿命だと受け入れるしかなかった。
・ 夫や義兄は頼りにならず「自分が看るしかない」と覚悟を決めた。
・ 占い師に「あなたはどこへ行っても姑の世話をするように生まれている」と言われたこともあり、自分はこういう運命と思い、あきらめた。
・ 夫がいつもそばにいてくれた気持ちを理解してくれたことと、子供の存在。
・ 子供のために離婚せずに我慢した。
・ 子供のため、子供がおらんかったら、いんどったかもしれん。
・ 子供を手放して出ていくことはできなかった。
・ 何でも上には上がある、下にも限度がないけどね、上を見れば果てがない、こればぁやったらたえないかんなぁって思いました。
・ 嫁いでからは義父母が良い嫁に仕立ててくれた。周囲に「よい嫁だ」と言ってくれた。
・ 義父に「どこへ行っても同じやき、辛抱せないかんよ」と言われた。
・ 義母が来訪者に「よう世話してくれる」と言ってくれた。
・ 実母も介護生活を送っていたので、自分も頑張らないとと思った。
・ 義母と2人で義父の介護をしたので、それほどつらくなかった。
・ 子供時代、早くに母を亡くし、苦労しているので、実母を看る代わりと思い、我慢できた。
・ 自分が選んだ道だという思い。
・ 自分に頼り切っているので、看てあげないとかわいそう。
・ 元気なころに、子供の面倒をみてもらっており、恩を感じている。
・ 「欲もなけりゃいかんけど、意外な欲にはようばんねぇ」と言われた。
・ 他に帰るところがないこと。
・ 結婚するときに、父に「帰ってくるな」と言われた。
表彰について
表彰を受けた年齢は、最年少28歳、最年長52歳、40歳代が多い。
夫の家族を介護し表彰を受けたことを、
模範嫁たちは
「この程度のことで表彰されるなんて・・・」
「当たり前のことをしただけです」と語る。
介護されている側のことを思い、申し訳ないきもちになったり、表彰がプレッシャーや重荷になるケースもある。
表彰をうけるということで、近所や親戚から「えらかったね」「よく頑張ったね」
とほめられ、愚痴や弱音を吐きにくくなるからだ。
受賞の際、大半の家族は喜んでくれたが、そうでない場合もあった。
その例をあげると
・ 夫が「苦労は掛けたと思っていたが、介護したくらいで表彰をうけるとはピンとこなかったと言った。
・ 夫や義父は表彰を受けたことを知っているが、何も言わない。
・ 義父が「おらが寝たおかげで表彰もろた」と言った。
・ 義母はあえて何も言わなかった。
嫁がやって当たり前の介護で表彰されるということは、ある意味、特殊だったのかもしれない。
また、介護される側からすると、自分が迷惑をかけているということを目のあたりにして、つらく思うこともあったと思われる。
表彰式には11名が家族や役場の人と出席している。
欠席した1名は、家族が何も言ってくれず、かといって、自分から受賞したことを話して式に出席することもできなかった。
式に出席できるかどうかは、家族が「行っておいで」と言ってくれるかどうかに左右された。
表彰状は、
「飾ってある」が4名
「飾ってあったがしまった」が4名
「しまったまま」が4名である。
しまった理由は、介護される側への気遣いと、現在の嫁に当てつけがましくならないようにという配慮からだ。
受賞記念の品は、急須と湯呑みの茶器セット、風呂敷、目覚まし時計、お盆、レターラック、コーヒーカップの中から2~3品組み合わせたものであった。
”老人洋上大学に参加した人は、介護から一時の間でも解放されて、同じ境遇の模範嫁たちと船中や旅館で語り合い、結婚後初めて旅行ということもあり、良い思い出になっているという。
注)高知県洋上大学について
1973年より実地
主催:県・県老人クラブ連合会
後援:高知新聞社
日程:4泊5日位で「さんふらわあ号」利用
参加資格:60歳以上285名(私費)。模範嫁・母子家庭の母又は寡婦(15名)は無料、但し乗船までは自己負担
応募の仕方:市町村役場に応募
選考:市町村・老人福祉施設連絡協議会長・市町村老人クラブ連合会長・軍福祉事務所長などから推薦されたものから選考(誰が、は不明)
ここまで、高知県に模範嫁の制度があって、表彰された模範嫁を訪ねて、その生活の様子を聞き取り調査した概要を簡単にまとめました。
次回は模範嫁の聞き取り調査をして、みえてきた家制度、性別役割分担これからの介護の社会的意義についてまとめていきます。