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a day in my life

あんかけの10代~30代までをざっと振り返る

こんにちわ~ あんかけ(@guam345)でーす。

10代、20代、30代、と私の人生を振り返ってみたいと思います。

 

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¶ 10代(1960年)

 

愛知県名古屋市生まれ、小学生の時は缶蹴りをしたり、凧あげをしたりした記憶がある。お正月に雪が降っていて、着物をきせてもらった記憶がかすかにある。

家の前の道が砂利道で近くの天白川でアサリを取ってきて、七輪で焼いてよく食べた。

食べたあとの殻は道の真ん中に捨てた、車が通って、粉砕していく。

 

小学校4年生のときに、水洗トイレが名古屋市全域に整備された。

中学校に入るころに電話が我が家にもついた。

父親が氷屋をやっていた。

リヤカーに氷を積んで、1軒1軒配達していた。

麦わら帽子をかぶって、チヂミのステテコに運動靴ではなく万年草履をはいていた。

小学校が夏休みのときには一緒に配達を手伝った記憶がある。

 

普通の住宅に氷を配ってまわる。

たいがい留守なので、勝手に台所に入っていく、台所は土足で入れる土間が多かった。

タイル張りの流しがあって、その横に木材でできた2ドアの冷蔵庫があった。

上のドアを開けて、氷を一貫目に切ったものを入れてドアを閉める。

 

中学生のときにはビートルズが日本に来た。クラス中の子が大騒ぎをしていた。

私はエルビス・プレスリーのほうが好きだった。

映画館に映画を見に行きだしたのもこの頃だ。

おばさんにつれていってもらった「シェルブールの雨傘」のカトリーヌ・ドヌーブのか可愛らしさ、洋服のお洒落なこと、音楽もステキだと思った。

「マイ・フェア・レデイ」「ラスベガス万歳」「アカプルコの海」「リーサルウェポン」など、映画館へ映画をみにいくことが、最大のたのしみだった。

 

テレビでは「11PM」という夜遅くに始まる番組があった。

大人の世界だなぁと覗き見ていた。

「荘苑」というファッション誌があって、秋川リサ、入江ミキ、ティナ・ラッツってファッションモデルがかわいくて、なんでああいうふうに生まれなかったのかしらと人生の格差に気づいた。

 

¶ 20代(1970年)

 

18才の時スーパーの大型テレビの前で人がやまをなしていた。

浅間山荘事件、よど号ハイジャック事件、学園紛争がテレビに映し出されていたのだ。

なんのことか、なんであんなことするのか、理解できなかった。

 

友人たちは、22、23歳で結婚した。そしてすぐ子育てをしていた。

お見合いをたくさんした。でも結婚したくなかった。

目の前には洋々と私の人生の可能性が広がっているように思えた。

20代、家を出て一人暮らしをした。

自立、自活、自分で食べていく、ということに必死(夢中)だった。

お風呂のない安アパートを借りた。雪が窓から振り込んできた。

ストーブを買うか、ラジオを買うか、で迷ってラジオを買った。

 

高度成長期真っ盛りという時期で、なんとかなった。

27才になって、なんとか落ち着いたと思う。

その年の暮れにテレビをつけたら、「エルビス・オン・ステージ」をやっていて、

エルビスも年を取った、そしてわたしも少し年を取ったと思ったことを覚えている。

 

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¶ 30代(1980年)

 

名古屋の繫華街で居酒屋を経営した。

20代後半は飲み歩くのが楽しくて、給料全部飲み代に使っていた。

そんな生活を続けながらも、このままではいかんよなぁ、とも考えていた。

 

そんな時、高倉健の映画「駅 station」を見た。

北海道の最果ての酒場が出てきて、健さんがのれんをくぐると倍賞千恵子扮する女将さんが「イカのあぶったのぐらいしかないけど」と疲れた声で言った。

カウンターに座る健さん、古びた店の奥からテレビが紅白歌合戦を流していた。

 

そのとき流れていた曲は八代亜紀の「舟歌」

大人の時間が流れていた。

それを見たときに「これをやろう!わたしがやるのはこれだ」と決めた。

 

それからは、会う人、行く店で、「居酒屋をやりたい」と宣言しまくった。

そうしたら、そんなに時をまたないで、「お店やめるって、とこあるから、やってみる?」と話があった。

そのお店は、当時住んでいたマンションの真ん前だった。

「やる。やる。」でとんとん拍子に話が決まって、一か月後には、割烹着を着て、居酒屋のママさんになっていた。

それからは、お店のオーナーなわけだから、一生懸命はたらいた。

映画や音楽に目も耳もくれず、休日も必要ないと思っていた。

そのぐらいに楽しかったし、熱中して居酒屋経営に没頭していた。

 

ということで、30代後半になっていくまで、名古屋の真ん中で居酒屋やってました。