友子さん、結婚即義父母の介護スタート!その2
昔の結婚生活を伝えたくて…
2000年に「高知女性の会」のメンバーが、
「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから
了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して
聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。
こちら↓その①から読んでね
はなむけの言葉
どんなに大変な時でも友子さんは親兄弟に泣き言をいったことがない。
それにはこんな話があった。
友子さんは6人兄弟の末っ子として生まれた。
その上小さい頃は体も弱かったため、両親は友子さんに甘く、割合自由にさせてくれた。
父は、昔風のひとでとても頑固な人だった。
姉たちの結婚は親戚の叔母が持ってきた話を、父が良いと思えばそれで決まっていた。
しかし、友子さんだけは、それを聞かなかった。
友子さんが嫁ぐとき、結婚式に来られない近所の人が「門出会」をしてくれた。
その時父は、高砂を謡ったり、ドジョウすくいを踊ったりして賑やかに祝ってくれた。
客が帰ったあと、父親から「お前は好きで嫁に行くんやから、いったん嫁に行ったらこの家の敷居は二度とまたげると思うな」と言われた。
一瞬むっとしたが、
「私だけが自由に嫁に行かしてもらうからしょうがない」と思った。
その時、友子さんは親兄弟には絶対に泣き言を言わないと決めた。
2番目の子供ができたときに
「お前はいま、つらいことはないか?」と母に聞かれた。
友子さんは、母にかまをかけられていると思い、自らの誓い通り、何も言わなかった。
つらかったら、いつでも帰って来いと他の子と同様にやさしくすると、友子さんが絶対に辛抱できないと思ったので、あえて厳しいことを言ったのだと、あの時の父の言葉の真意を語った。
そして、あの言葉を覚えている限り、友子はつらいことがあっても、泣き言をいえんだろう、あの言葉は水に流して、つらいことがあったら戻れって、お前がいうちゃれや」とある夜、父が晩酌をしながら涙ぐんで言ったと、母が友子さんに聞かせてくれた。
それを聞いた時、父がそんな思いを込めて、行ってくれたのならば、
「どんなことがあっても親兄弟には何も言わないのだ、一つの親孝行ではないだろうか。愚痴を言いたい時があっても、絶対にいってはいけない」と改めて思ったという。
父の本音を母が友子さんに話してくれたことを、おそらく父はしらない。
友子さんも、これまでこのことを誰にも話したことはなかった。
今思えば、父のあの言葉があったから辛抱できた面もあった。
もし父があの時、「つらかったらいつでも戻って来いよ」と言っていたら、
やはり甘え心も出て、辛抱できなかったかもしれないと、友子さんは思っている。
「実際には泣いて帰らないかんことはなかった。夫がいつもそばでみていてくれるから」と、友子さんのつらい立場を夫が一番わかってくれていたので、それで十分だと言う。
そして、当時は無我夢中で怖いもの知らずでやれる若さがあったから、日々を過ごせた。それに、やり遂げるしかなかった。
支え
9年間の介護生活。
義父母がすることではいろいろな苦労もあったとはいえ
何か言われて友子さんが鳴くようなことはなかった。
人から話を聞いていてもそうだが、言葉で言われるとやはり忘れられるものではない。
義母は口が良く回らずあまり話をすることはなかったが、義父はよく
「ねえ(友子さん)すまんのう」と言ってくれた。
今考えると、満足なこともできず親不孝な嫁だった。
ああもしてあげたら、こうもしてあげたら良かったと、思うことがある。
当時、夫の兄弟が時々実家に帰ってくると、友子さんが介護を満足にしてないと不満に思うこともあっただろう。
しかし、当時はそれ以上のことをする余裕はなかった。
そんな介護生活の中で友子さんをささえ、そこに留めてきたものは、
自分で選んできた道で他に帰るところがない、という思いだった。
そして、夫や子供の存在だった。
夫は友子さんが愚痴をこぼさなくても分かってくれていた。
いつもそばにいて、友子さんを支え続けてくれた。
夫にしてみれば、もっと親にちゃんとしてくれと思うこともあったかもしれない。
しかし夫は「わしゃ、自慢じゃないけんど、親のおしめを換えたことなんか一度もない」と何度となく友子さんをねぎらった。
表彰
模範よめとしてひょうしょうされるということを知らされたとき、
友子さんはとても嫌だった。
そんなことされたら、もうこの町を歩けないと思った。
満足な介護もしていないのに、表彰されるのは嫌だったので何度も断った。
しかし夫に「そう言わんと、お前が一生けん命やっとるという事を認めてくれとることやから、行ってこい」と言われたので、長女を連れて高知県庁での表彰式に出席した。
しかし、表彰されて帰ってきてもだれにも表彰状を見せず、置きっぱなしにしていた。
義父母には表彰されたこともいわなかった。
新聞に載ったとき、周囲の人が電話をかけてきてくれたが、とても恥ずかしかった。
今でも、本当に嫌だ。
24時間 果てのない介護
友子さんは、人から聞いた話と前置きして次の話をしてくれた。
普段はお嫁さんが介護をしているが、時々お婆さんの娘に世話を変わってもらう。
そんなときのお婆さんは、おむつも汚さなければご飯も食べ、言うことも聞き、
全く手が掛からない。
そのため娘は「いつもたまらん、たまらんなんて義姉さんは言っているけど、何がそんなに世話が焼けるの」と言って帰るそうだ。
お婆さんにしてみれば、たまに娘がくると緊張もあるし、嬉しさのあまりついつい食事もする。
嫁いびりではないが、ずっと介護をしている人には、心の暖みと甘えがある。
失禁もするし、食べたくないと我儘もでる。
ずっと毎日介護をしていればお互いに甘えがでるものだ。
まあた介護する側にしても、自分の家の介護と他人の家の介護を手伝うのは違う。
ヘルパーも自分の家の介護も大変さはおなじだが、ヘルパーは限られた時間の中だからできるのだ。
これが毎日24時間、そしていつまで続くともわからなかったら、
絶対同じようには出来ないと、友子さんは考えている。
自分が手をかけて介護する必要がない相手であれば、その場限りの口先だけで何でも言うことができる。
高齢者が「よその人は親切や、優しい」というのは、友子さんにはよくわかる。
自分の親に「今日はどうね?どんなん?」などとは言わないものだ。
通じ合っているから、言わなくても分かるが、他人は分からないから声をかける。
しかし、その一言が高齢者にしてみれば「あそこの人はいつも言葉をかけてくれて優しい」となる。
高齢者が嫌みをいっても、他人なら言い返さない。
転んだりすれば手もかすだろうが、他人は日常の生活にはかかわらなくてもすむ。
しかし、家族となると、いいことや喜ばすことだけを言って暮らせない。
そのために「うちの嫁は怒る」「えらい強い」などということになる。
友子さんも義父母に
「外を通る人は皆優しい、自分が手をかけなくてできるやったらみんな優しい。朝から晩まで365日一緒におる人はそんなきれい事ばあ言うてられんよ」
と言ったことがある。
友子さんもよそのお婆さんには「ああ、お婆さん元気かよ、頑張りゆうかね、ご飯食べたかよ」と声をかける。
そうすると、そのお婆ちゃんは「あそこの嫁はいつも声を掛けてくれて、優しいわ」と
友子さんは言う。
また、たまに介護する人なら、いいところしか見えないものだ。
よく本にも介護される側の言ったこととして
「たまに帰ってくる嫁さんとか、そういう人は凄く優しい。いつもやってる人はえらい」などと書いてある。
お尻を拭くときでも、たまに介護する人は要領がわからないだけに恐る恐る丁寧にするが、慣れたものはさっさと手早くする。
その手早さが介護される側にとっては叩くような感じをうけることもある。
しかし義兄の妻が帰った後では
「こないだ来た姉さんは、いよいよ手荒い人やった。やっぱりおまはんは上手やのう」
と義父が言ってくれたことがある、友子さんはわかってくれていたと今になって思う。
介護の勉強
今、友子さんは毎日介護の勉強にいっている。
理美容組合である程度の人を集めたら講師が来てくれるということで、
人数集めに協力して申し込んだ。いわば成り行きからだ。
しかし、講師がきることが決まってから、申し込みを取りけることはできない。
自分の身体が続くかどうかはわからないが、行けるところまで行ってみようかと通い始めた。
平成12年に3級は受けた。
3級の受講を終了してから、2級を受けないかと誘われ
「えーーっ」と言いながらも受けることにし、今通っている。
2級は全部で104時間の受講が必要である。
講義だけでなく、実技もあり、最後のほうでは訪問実習もある。
2級の終了証をもらったとしても、実際の介護現場には行くことはできないと思う。
しかし、一方でできるところまではと思い受講を続け、ボランティアなどをして自信がついたら、ヘルパーをするかもしれないと、こころが揺れている。
介護関係の本を読むと、介護の仕方は基本的には自分たちがしていたのと同じだ。
一緒に受講している友人と、学科の方は勉強していないから駄目だが、実技は結構以前の体験が役立つと冗談まじりに話している。
ただ、同じことをするにしても、今はもっと楽にできる。
寝具一つ例にとってもベッドのリースもある。
部屋を改造するための、一応の補助もある。
匙などの食器も身体が不自由な人にも使いやすく改良されている。
何から何まである現在を思うと、今の高齢者は幸せだろうと思う。
友子さんが義父母を介護していたころは、知識を得る方法もなく、
まさに行き当たりばったりの介護だった。
思うのと実際にするのとは違うことを、経験から十分わかっているが、
介護していた当時、今ある設備や今学んでいる知識があれば、
親に至れり尽くせりの、もっと良い介護ができただろうにと思う。
今までした介護は、なにもわからず自己流でしてきた。
友子さんはこれからの時代は、家族を介護する場合でも、介護の知識ぐらいもってもいいと思い、介護の勉強をしている。
ヘルパーで身を立てていこうという気分でやっているわけではない。
人の介護をするのは十分したから、
「2度とイヤ、人にしてもらうのも嫌」と友子さんは言う。
教えてくれる講師には悪いが、やはり今の自分の年齢ではもう介護の仕事はできないと感じている。
老後
元気で老後をすごせるのが何よりである。
今の高齢者はゲートボールやカラオケ、温泉に行ったり、
ディサービスも受けて健康で楽しむことができる。
義父母ももう少し元気で長生きしていれば、昔苦労した何分の一かでも楽をして、
天国に行くことができただろう。
義父母と同じ世代でも、今長生きしている人は本当に得だとおもう。
友子さんは自分がすぐ足や腰が痛くなることもあって、元気な高齢者をみているとうらやましく、
「あんな人生送らないかん」と思っている。
平成12年の4月から介護に関する制度ができて、後継ぎだけが看る当時いうこともなくなってきた。
親を思う気持ちはいつの世でも変わらないはずだが、今は金銭的余裕もあるためか、
人手がないわけではないが、少し悪くなるとすぐ病院に入れて、家で介護をしなくなった。
友子さん夫婦は結婚した時から義父母と一緒だったが、
自分自身は子供たちと一緒に住みたいとは思っていない。
子供たちは好きなだけ別に生活をしたらいいと思っているし、
子供たちにもそう言っている。
子供たちには、自分がしてきたことをしてほしいとは思わない。
そんな苦労はさせたくない。
当たり前のことではあるが、自分たちが炊事、洗濯できる限りは2人でやっていこうと、いつも夫にも話している。
夫を看るのは当たり前だから看るが、もし最後にどっちが残ったとしても、
手に負えなくなった時には、病院でもどこでも入れてほしい。
自分が親を看てきたからと言って、子供たちに最後まで家で看てもらわなければとは思っていない。
自分たちがやりやすいようにしてくれたらいい、と子供たちには言ってある。
息子は「即、病院に放り込んであげるからね」と言い、
友子さんは「それがええ、ええ。気楽でええ。今から病院を決めたおこうかね」
と冗談交じりに言っている。
友子さん、結婚即義父母の介護スタート! 完