Chico style

a day in my life

【漁師の嫁ちか子さん】表彰と少しだけ夫婦のこと

f:id:chizukoike:20180704212436p:plain

 

昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 【漁師の嫁ちか子さん】は3部作になっています👇から読んでください^^

chizukoike.hatenablog.com

 

 

chizukoike.hatenablog.com

 

 

表彰

 

ちか子さんを模範嫁に推薦したのは、今はもう亡くなったが同じ地区の女性だった。

昭和49年、ちか子さんが38歳のときだった。

模範嫁の表彰の知らせを受けた時ちか子さんは

「まあ、こんなこともあるがやね」と思った。

この時、夫が何をいったか覚えていないが、

「よかったやか」と言ってくれたのではないかと思う。

 

「一応表彰されるがやったら表彰式にも行ったほうがええがやろうか」と思い

また、ちか子さんの住むD市の市役所にも

「表彰の謝辞を読んでくれ」と頼まれたこともあって、

当時5歳の末の子供を連れて表彰式に行った。

 

表彰式に行くとき義父に「おじいさん、表彰されたけん行ってくるけんね」

と声をかけたが、義父は何も言わなかったように記憶している。

反応も「行っておいで」といったものではなく

「しかたがない」というような感じだったようだ。

 

表彰式では市役所の人が書いてくれた謝辞を読んだ。

初めての経験に身体が震えてしまいどういう風に言ったかは覚えてない。

県知事と握手をして会食して帰った。日帰りだった。

 

表彰状と湯呑と急須の茶器セットをもらった。

表彰された時、老人洋上大学の旅行に招待してくれるという話を聞いたが、

介護が必要な年寄りを置いて参加することはできなかった。

 

今になってみると、その分に金一封でもと思うが

「なかなか、ねえ」と苦笑する。

「今やったら行けれるけどねえ」とちか子さんは笑う。

 

一緒に表彰を受けた人たちの中では、ちか子さんが一番若いほうだった。

表彰式にはみんなで写真を写したが、その写真もどこにあるかわからなくなっている。

表彰状は飾らなかった。巻いたままどこかに置いてある。

記念品としてもらった茶器セットのうち、湯呑はいまでも使っている。

 

表彰後、夫はそれについて何もいわなかった。

義兄弟には表彰されたことをいまだにはなしていない。

表彰式に行くときも、義兄弟には黙って行った。

夫も話してないのだろう。

表彰のことは新聞に載っていたが、それを読んでいるのかいないのか、

義兄弟からは何の言葉もなかった。

 

しかし、友人がお祝いをしてくれた。

「どこかへ食べにいこう」と言って連れて行ってくれた。

また保健婦さんも食事に連れて行ってくれた。

 

地元の正月

 

結婚した当初は、正月の時などに着物を着ていたが、今は着物をきることもない。

ちか子さんの住む町の正月は、雑煮にはイトヨリやビタといった赤い魚や水菜を入れて作る。

また、船には塩にをしたレンコ2匹の頭と頭を結わえて、なわしろに吊るして置いておく。

それを15日になったら塩抜きをして焼いてたべるのだ。

食べる頃には干したような感じでカラカラになっている。

辛い鮭のような感じだ。

「それが一番おいしいで」と言う。

 

夫婦旅行

 

この地域では、男の厄年の42歳になると夫婦で旅行に出かける。

同級生も皆行き、ちか子さんも夫が42歳の時夫婦で出かけた。

 

日和佐や金毘羅さんなどに行った。

初めての2人きりの旅行である。

また、平成7年頃には、長男の結婚式のためにC県に行った。

この時、義祖母も義父も既に亡くこれも二人きりの旅となった。

 

家業が漁業だから、旅行に行こうと思えば行けないこともない。

暇とお金があればの話だ。

しかし、よそが働いているときに休めば、魚を釣られてしまう。

結局なかなか出て行くことはできない。

漁業の婦人部での旅行には、30歳か40歳の頃2回ほど行った。

道後と宮島だった。

 

 

自分たちの介護

 

 

ちか子さんが義祖母や義父を介護していたころ、

介護は嫁の仕事というふうに思われていた。

つらくても、ちか子さんは子供のためと思い、泣きながらも耐えてきた。

今は子供がいても、別れて実家に帰る人がいる。

 

ちか子さんはそれではいけないと思うが、現状はそうなってきている。

自分たちに介護が必要になったときには、介護保険制度を利用してやっていかねばならない、と思っている。

 

ちか子さんの周りの人も、家族に痴呆のものがでると家では看られないと、

病院に入れている。

家で介護する、ということは滅多にないのだろうと思う。

そのため、ちか子さんはいざという時を考えて介護保険料も払っている。

娘たちには苦労させたくないし、介護してもらうことはできないだろうと思っている。

 

しかし本当のところは、自分の老後は家で看てもらい貰いたいと思う。

家で死にたい。病院では死にたくない。

それよりも、病院に行きたくない。

病院より家の方が慣れた場所だけに安心がある。

しかし、それはまた、なかなかできないだろうとも思っている。

 

夫とは2歳違いである。

5~6歳ほど年が離れていれば、もし今後夫に介護が必要になっても家で看てあげられるかもしれないが、2歳ちがいだと自分も一緒に弱ってくる。

出来る限りは家で看てあげたいと思っているが、無理がでればやはり病院に行くようになるかもしれない。

 

「それを考えると介護保険はありがい制度になるかもしれませんね」と言う。

しかし、介護保険料は高く、利用するにも金がかかる。

もう少し安くならなければ制度を利用しにくい。

働けなくなったら、払うものも払えなくなるかもしれない、という不安もある。

 

むかし、捕鯨船や鰹漁船に乗っていた人なら、厚生年金がもらえる。

その人たちの生活は比較的楽だ。

年間200万円もの年金を受け取っている。

だから、今沖へ行って何も釣らなくても暮らしていける。

しかし、ちか子さんたちは国民年金である。

受け取る額は本当に少ない。

 

釣った分で暮らしているのだ。

その中から介護保険料として2人分の6000円を取られることはとてもつらい。

しかもまた保険料が上がると聞いた。

 

病院に行っても医療費が高い。

借金もある。

古くなった船の部品修理にも、一つ数十万円とかかる。

どの費用も削ることはできないだけに、生活は大変である。

 

 

現在

 

 

自分でも苦労したなと思う。

結婚したことを「いまだに良かったとは思わんけど」と笑う。

10年働いて結婚して、慣れない漁師の家の生活、義祖母と義父の介護、

その後7年働いた。

本当に働きづめだった。

 

今はそんなには沖にでることはしない。

波があるし、年を取ったこともあって、無理はしない。

船も古くなったが、新しい船を作るには何千万円もの金がかかるためできない。

 

最近は日和もよくない、しかし、5時ごろ無線で組合から連絡が入ると

魚を揚げには行っている。

現在、夫も働くし、昼はテレビも見られる。

長女は独身でパーマ屋に勤めており、長男はC県にいる。

次女だけがこの町に住んでいる。

次女の夫は鰹漁船に乗る漁師だ。

 

血圧が高くなったり足が痛くなったりするので、身体が弱ってきたと感じている。

この状況に「ひとつもええとこがない」と言う。

しかし今なら、旅行にもいくらでも行ける。

身体が弱ってきているとはいえ、まだまさ元気だから、楽しみたいとも思っている。

 

                          漁師の嫁ちか子さん 完