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【模範嫁を探して】たか子さんの結婚と介護 第2章

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昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 

 

 

たか子さんのワンオペ育児

 

当時、夫は毎日お酒を飲んで帰って来た。

たか子さんもお酒は好きだったが、お酒を飲む暇はなかった。

「どうして私ばかりが」と情けなかった。

 

感傷から「つれづれなるままに」とノートの表紙に書いて、

悲しかったこと、つらかったこと、楽しかったことなどを、時折綴っていた。

「それ、つづけたらええわ、」と夫は言ったが、

夜は眠くて大変になり、少しの間しか書けなかった。

 

義父の死後、この介護日記を思い出すままに書いてみようと思ったことがあった。

その後、有吉佐和子の「恍惚の人」が評判になったので読んだが、

「こんな生やさしいものではないのに」と思った。

文才があるのとないのでは、こんなに違うものかと思ったものだ。

 

義父のことでつらかったのは、義父がわがままを言って

「もう看てもらわん」と言った時である。

一度、あんまりつらくて実家に帰ったことがあった。

でも、近所の手前もあるし、自分の責任もあると思って戻ってきたが、

他に看てくれる人もいないというのに

「戻って来んでもええ」と怒られた時には、言いようのない寂しさにおそわれた。

「ぐっと我慢の子をせんといかん時もあるんじゃなあ」と思った。

 

「夫は飲みさかっちゅうし(飲んでばかりいるし)、義父はやけを言うし、

そんな時はつらかったです。」とたか子さんはしみじみと言う。

 

夫はなぜ飲んで帰るのか。

家に帰っても化粧の一つするでもなく、つぎはぎのもんぺをはいている妻より、

飲みに行けばいれいな人もいるからだろう。

お酒の好きな仲間と会えば飲みに行った。

 

 

 

 

夫は炊事も介護もしない。

子供の風呂も一度もいれたことがない。

 

2人目の女の子が生まれた時は、子供を自分ひとりで風呂に入れるのに困った。

まず上の子を風呂に入れて、続いてもう一人も、というと、

自分はろくに洗うこともできない。

 

あがってからも、まずバスタオルで下の子をくるんでおいて、

大急ぎで上の子の服を着せる、という具合である。

冬などは自分が裸のままで子供の世話をしているうちに寒くなってしまう。

 

一度だけ、母屋とは離れた場所にある風呂場で

「なんぼ呼んでも来てくれん、子供の着物ばあ着せてくれればいいのに」

と夫に言ったことから、義父母に爆弾をおとされたことがあった。

2人とももの凄く怒って、

「男を使うな!」と怒鳴ったので、とたんに縮みあがった。

 

それからは家事に関しては一切夫に言うこともなく、

夫を頼りにすることもなくなった。

当時、義母は70代で、子守りをしてくれて元気ではあっても、

子供を風呂に入れることはできなかった。

 

夫に当たることはたまにあったが、夫に話せるようになったのは楽になってからだ。

本当につらい時には愚痴もこぼせなかった。

 

「今思い出したら、涙の出るときもあるけど、本当に苦しかった当時は涙も出ないし、誰にも話せるものではなかったです」とたか子さんは言う。

 

「父と妻の間に挟まれて、苦労しました。どちらの側にも立たないように注意していました」と夫は言う。

「いまではお客(宴席)のときに、冗談で『私は騙された』と言うんですけどね」

とたか子さんは笑う。

 

たか子さんと嫁の立場

 

昭和36年に長男が生まれたときには、出産の直前まで炎天下で草取りをした。

そのせいか長男は小学校入学前1年間、保育園に入ったが、入園後1週間もたたないうちに紫斑病になり、洗面器でうけるほど鼻血を出し、入退院の繰り返しだった。

 

子供が学校に入ったころ入学式だけは行ったが、他の行事には行けなかった。

子供はまだ小さい上に、おむつの洗濯,三度の炊事、義父にはお粥、

とやることはいくらでもあった。

 

参観日は夫がほとんど行った。

そんな中でも学校の節目の時には、子供がかわいそうだからと、少しの時間を見計らって行くようにした。

 

介護に忙しくてろくに子供をみてやれなかった。

それなのに、道をそれずに育ってくれてありがたいことだと思っている。

 

子供たちが昨年からお年玉をくれるようになった。

「母さん働いているからえい(必要ない)」と言うのに

「何か買いや」と言う。嫁も優しい。

 

今のところ、家族みんな仲が良い。

たか子さんは

「よそ様の娘さんをもろうたに、嫁にいやな思いは絶対させたらいえけん」と言う。

そんなたか子さんに夫は「ちょっと気を使いすぎ、大事にし過ぎやないか」と言うが、

「私は嫁に嫌な思いをさせたらいかんと肝に銘じて、できることはしているんです」

と言う。

 

この辺りでは男が炊事をするとか、子育てを手伝うなどというのは聞いたことがない。すべては嫁の仕事だった。

 

晩年は寝かせてくれたが、義父が寝付いた当初何年かは、夜、熟睡したことがなかった。疲れたなあと思うことはあっても、翌日に疲れが残ることはなかった。

若かったからこそできたことであった。(たか子さんは18歳で結婚していた)

 

義父が亡くなる前に最後に夫の兄弟が集まったときに、義父はもうお粥も食べられない状態だったから、ミルクを用意した。

義兄が義父にミルクを飲まそうと持っていったら、

「毒が入っちゅうき飲まん」と言われて、義兄は傷ついて怒った。

「もう、おらあ、なんぼ自分の親でもそんなこと言うて知らんぞ、放ってきたぞ」

と言いながら炊事場へ帰って来た。

 

たか子さんが「お義父さん、これ飲まにゃ死ぬるぜよ、私がこしらえたんじゃ」

と言うと、

「ああ、ねえがこしらえたんなら飲む」と言ってくれた。

「義父の死に際に、初めて私は救われた、と思いました。」

とたか子さんは言う。

 

義父の葬式の時、義兄の妻が「どうされた、こうされた、それで出て行ったんじゃ」と言うと、夫は「年取ったけん、よけいむつかしかったわ」と言っていた。

葬式の後、義兄が「私らじゃったらよう看れんかった。よう看てくれた」と言ってくれたので、夫も義兄も大変なことは分かってくれたんだと思った。

 

 

 

 

実母と義兄の妻は明治の終わりの生まれて、おない年である。

子供を預けに行ったとき、実の両親は

「4人兄弟の末息子に嫁にやったのにこんなはずではなかった」と言った。

 

義父が亡くなって、しばらくはまだ死んだとは思えなかった。

義父がいないということに慣れていないので、買い物にでても、昼には

「ご飯を作らんといかん」と思うようなことがよくあった。

洗濯ものも減り、夜も起きなくていい、

一時期少し抜けたような、ボーっとしていたことがあった。

 

たか子さんの表彰

 

模範嫁は役場の推薦だったと思う。

というのも、当時役場から寝たきり老人にベッドを貸してくらたことがあったからだ。

父が寝込んだ最初のころに、月に一度くらいの割合でヘルパーを派遣すると言ってくれたが、自分でできると断ったことがある。

それらのことでやりとりがあったので、現場を見た役場の人からの推薦であっただろうと思っている。

 

義父は、受賞の時に

「おらが寝たおかげで表彰もろた」と言っていた。

表彰状は夫が壁にかけてくれた。

 

表彰式へは、たか子さんは行きたくないと言ったが、夫が

「表彰してくれるというのやき、いって来い、表彰なんてありがたいことだ」

と言って勧めてくれた。

「夫は男やき、ありがたいなどと言うことはなんちゃあなかったが、そうは思ってくれてました。後に私の母が寝付いた時、

『俺の親を看てもろうたんやき、お前の親もできることは何でもやってやれ、何ちゃあ気兼ねすることはないき』と言ってくれました」と言う。

 

そんな夫でも

「(妻が表彰を受けた当時は)苦労かけたとは思っていたけど、介護したくらいで表彰うけるとはピンときませんでした。当時はそんなもんでした。今は感謝しています」

と言う。

当日は夫が義父を看てくれた。

表彰式は県の正庁ホールで行われた。

みんなを代表して謝辞を述べよと言われて、読んだ覚えがある。

 

謝辞は、夫は自分が書いたと言うが、たか子さんも自分で書いたと記憶している。

結婚して初めてスーツを作ってもらったが、靴までは買えず、ペタンコの古いサンダルを履いてホールのリノリウムの床で滑りそうになったのをお覚えている。

 

本当のことをいうと、表彰はプレッシャーがかかり、重荷になった。

その頃は現金収入がなかった時だったから

「紙きれの表彰より、お金をもらったら良かった」と冗談に言ったものだった。

 

実際に表彰されても一銭になるわけではなかった。

たか子さんの時代には、介護したからといって得になることはなにもなかった。

近所の人は新聞を見て、「えらかった」と言ってくれた。

 

義父が死んで何年かして、離婚した夫の姉が、老人ホームに入るという約束で帰って来た。一年ほど家にいて、ホームに入りガンでなくなった。

仕事をしながらホームと市内にある病院に通っていた気丈な義姉であった。

闘病の最後に口にチューブを入れられた時、

「私のものはみんなたか子さんにあげる」と紙に書いて見せた。

背中をさすっていたら、

「たか子さんは休め、お前がもめ」と紙に書いて夫に示す。

夫はそれを見て苦笑いし、たか子さんと交代して背中をさすった。

病院の帰りに

「あんな気丈なお姉さんがあんなかわいらしいこと言うたら、長くはないで」

と話ながら家路についたが、3日後に亡くなった。

 

「がい(気丈)な人はがいでおらんと、かわいらしゅうなったら先が短い」

としみじみと語る。

たか子さんは、義父母だけでなく、義姉も自分の実母も介護した。

昨年は一番上の義兄も亡くなった。

 

昭和51年から、寮母の仕事を始めた。

義父の介護が終わったばかりの昭和47年に誘いを受けたが、

その時はとても応募できなかった。

2度目に声を掛けられた時に、子供の教育費もいることだし、固い仕事に就くのが一番だと思い、就職した。

寮母の仕事は泊りもあるので、夫と相談した。

結果的には勤めにでて良かったと思っている。

「今は仕事から帰って、夜は好きな酒を飲んでバタンキュー、幸せです」

とたか子さんは言う。

 

 

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