Chico style

a day in my life

【高知グルメ】JR朝倉駅前の「 大吉」の焼き鳥

焼き鳥とビールというのは、働く大人のオアシスだ!

砂肝を塩焼きで注文して一味をたっぷりかけて、

ビールをクビッっとやれば、チマチマした悩みなど吹っ飛ぶおだ!

だから、梅雨空みたいにすっきりしない日は

やきとりの「大吉」へいくのだ!!!

 

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こちらのお店は20数年来の行きつけで、

やきとりがすごく美味しいです。

炭火で丁寧に焼いてくれます

火力が強いと水を掛けて調節するのですね、

カウンターに座ると、焼ける焼き鳥見ながらビールが飲めます

 

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すぐそばに高知大学があるので、毎年新入生からバイトがくるようです。

学生のバイトと大将5人ぐらい態勢で切り盛りしています。

いつもお客さんでいっぱいの繁盛店です。 

 

あとはハサミとか手羽とか色々食べたけど

写真撮るのはもう忘れてますね

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最後に大吉サラダを注文して、

お口をさっぱりさせます

 

 そして電車の時刻に合わせて帰ります。

美味しかったです、ごちそうさまでした。

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友子さん、結婚即義父母の介護スタート!その1

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昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 

結婚

 

とも子さんは昭和16年にA市で生まれた。

小さい頃は体の弱い子供だった。

実家は林業も営む農家だった。

 

結婚した姉が住むB市に出かけた時夫と知り合った。

当時夫の両親の介護は嫁がするのが当たり前という風潮があり、

とも子さんはそれを承知で昭和43年、26歳で結婚した。

 

義父は昭和50年、義母は昭和52年に亡くなったので、

結婚した昭和43年から9年間介護を経験したことになる。

 

夫は6人兄弟の4番目だったが、

長兄は転勤を繰り返す勤め人、次男は県外在住、三男は船乗りで、

家を継いだのが夫だった。

 

結婚するまでは炊事、洗濯はほとんど夫がしていたという。

夫の兄弟は皆男ばかりだったこともあって、

義父母は初めてできた女の子ようにとも子さんに接してくれた。

できた人のことをこの土地の言葉で「結構な人」というが、

義母にしても夫にしても、とても「結構な人」だった。

 

近所の人が義父のことを「おんちゃんは仏さんみたいな人や、自分が損することがあっても、他人に憎まれるようなこともなく、他人のものを取ってくるようなこともしない」とよく言っていた。

 

夫の家は店を営んでいた。

嫁ぐ前、とも子さんは客商売の経験はなかったが、

客への対応は特に問題なかった。

しかし、商売のことは何一つわからず、

結婚当時は全て夫に「おんぶに抱っこ状態だった」という。

 

「病気の両親がいなかったら、私はとっくに暇をもらって帰っているね。病気の両親がいたばかりに、私家政婦だったね」と今でも冗談交じりに夫によく言う。

また、親の介護はどこの家でもしていたとも友子さんはいう。

 

 

生活

 

昭和43年の結婚当初から、ガス、水道、電気、二層式の洗濯機があった。

しかし、当時の二層式洗濯機では、ネルの着物などは回らなかった。

そのあと新しく買った洗濯機では回るようになったが、

古い洗濯機も捨てがたく、2台とも使って洗濯していた。

 

 

出産

 

昭和45年に長女が生まれ、2年後に長男が生まれた。

長女が生まれた時は、義父母も一緒に写真ととったり、

車でお宮参りにも行ったが、長男の時にはそのようなことをした記憶がない。

義父母はもう子供を抱くどころが、自分自身も支えられない状態になっていた。

 

友子さんが出産で病院や助産婦さんのところに行っている間の

約1週間だけは、

高知にいた。

その間、義兄の妻が義父母を看に来てくれていた。

炊事もしてくれたため、とても助かり安心できた。

しかし退院して帰ってくるとその晩から友子さんは立ち働き、

産後もゆっくり体を休める暇はなかった。

しかし、3人目の子供が生まれた時は、産後の容態がとても悪く、

その時は義兄の妻2人が帰るに帰れず、交代で2~3日家にいてくれた。

 

 

子供・教育

 

長女が生まれたころは、昼間店員を雇っていたが、長男の時はその店員もやめていた。

そのため、長女は3歳、長男は2歳から保育園に行かせた。

長男は2700グラムで生まれて、体も小さくてかわいそうだったが、仕方がなかった。

 

長男出産から5年後に、3番目の子供を産んだが、この子は2歳から1年だけお守さんに預け、3歳から保育園に行かせた。

この頃には義母は亡くなっていたが、

その分、結婚当初より店が忙しくなっており、パートで店員も雇っていた。

 

友子さんは子供たちに「お母さんには僕らよく怒られた」

と今でも言われることがある。

当時も、友子さんは子供に「お母さんは私たちを怒っているときと、お店にいるときと全然違う」と言われびっくりしたことがある。

 

そんな時は

「お客さんには腹立てていくわけにはいかんろう?あんたたちを怒りよってそのままの顔でお店にいったら、お客さんにおばちゃんは怖いって言われて、あんたらはご飯をたげれんようになるやろ?」と言ったものだった。

 

怒る時は子供にだった。

「結局あたるのは、子供よね、かわいそうやったね」

と当時を振り返って言う。

3人とも素直に育ってくれたことが、友子さんには本当に救いだった。

 

 

介護

 

友子さんが結婚した当時から、義父母は寝たり起きたりの生活だったが、

義父が義母の手をつないで辺りを散歩に行ってくれるような状態だった。

その頃はお店をし子育てしながらの介護でも、まだ手が掛かるということはなかった。

 

義母は最初の頃からほとんどおむつを使っていた。

勿論紙おむつなど当時はない。

義父が義母を抱えて散歩に出ていたころはおむつをしていなかったが、

失禁はしていた。

 

朝起きると「廊下がべちゃべちゃ、布団も勿論ボタボタ」ということもあった。

しかしやはりおむつは嫌がった。

おむつをしても、片方の手で全部外して投げてしまった。

 

おむつを全部外してしまうのは痴呆の人の習性だと、

今は本にかいてあるが、当時は知る由もなく、

また、いつも痴呆の状態でいるわけでもない。

 

痴呆の状態なのか、そうでないのか全くわからないこともあった。

ベッドは下に落ちる危険性があり目が離せないため、

義父母はずっと布団をつかっていた。

 

子供は長女・長男とも1歳ぐらいになるとほとんどおむつをしていなかったため、

子供のおむつと大人のおむつの世話が重なっていた時期はそんなになかった。

 

大人のおむつは子供のと違い、厚手でなければならない。

そのため、ネルのおこしの広いものをかってきたり、古くなったネルの着物や何度も洗って毛がなくなったような毛布などを切って使った。

乾きが悪くなるので縫い合わさずに使った。

 

洗濯も、子供のものとは違って厚さがあるだけに大変だった。

着物も大きい、しかも今のように全自動ではなく二層式である。

大便などの汚れが落ちない時はあっさり捨てた。

「今はもう、思い出したくない。」と言う。

 

昼間は何度おむつを換えても平気だったが、夜はつらい。

子供は夜9時頃に寝かしつける。

友子さんが宵のうちから子供たちと一緒に寝る、ということはなかった。

 

一度布団に入ると、起きるつもりでも寝過ごしてしまうこともあるため、

炬燵に入って子供たちの保育園のスモックにアイロンをかけたり、

編み物をして時間をつぶし、深夜1時ごろにおむつを換えてから寝た。

そして朝は6~6時半ごろに起き、おむつを換えるという毎日だった。

 

睡眠時間は短かったが、そうかといって昼寝ができるような状態でもなかった。

子供を保育園に行かせても、こんどは店がある。

そんな生活のなかで、大きな病気もせず元気にやってこられたのは

「やはり若さがあったからだ」と言う。

 

義父母の介護にヘルパーを使ったことはまったくなかった。

友子さんは店の商売などで忙しいこともあり、義父母のためにあまり手が回らず、

行き届いた介護ができないことに申し訳なさを感じていた。

 

ある時民生委員が病院へ入れたらどうかと、話を持ってきた。

義父にどうしたいか聞くと「ねえ(友子さん)がかまわんかったら、おいてくれや」

「満足いくようにできんけど、私の今のやり方でかまわんかったら、おってもええよ」

と友子さんが言うと、義父は「やぱり家におりたい」と言った。

そして義父母とも、家でくらした。

 

義母は友子さんの結婚当初から風呂に一人で入れるような状態ではなかった。

介護に適した設備のある風呂ではなかったので、友子さんが後ろから手をまわして抱きかかえ、友子さんの足で義母の足を押しながら風呂に入れた。

友子さんの身体は小柄なほうだが、義母もそれほど大柄ではなかったから、それも可能だったのだろう。

友子さんが一人で、義母の風呂の介助をしていたが、最後のほうは、夫にも少し手伝ってもらっていた。

 

義父は結婚当初、比較的動けた。

そのため、痴呆が始まってからは、夜も安心して休めない時があった。

風呂に入れて寝かせても、深夜、音がして見に行くと義父が

「風呂に入ってない」と一人で入っていたことがあった。

 

汚れものの洗濯をするために、翌朝ふろの残り湯があると便利なので、

湯を捨てたくはなかった。

しかし、義父が深夜に風呂に入ろうとするのが、湯を出す音でわかるようにするために、風呂の栓を抜くようにした。

 

義父は太ってはいなかったが、体格がよかった。

体の自由がきかなくなってからは、夫が義父を風呂場に連れて行き、

友子さんが洗った。

義父が全部こちらに身を任せてくれれば風呂に入れやすいのだが、

ふとした拍子にひっくり返されてはと警戒するのか、

片手で持たなくてもいいところを持ち、

余分な力を入れるため、かえって危なかった。

 

義母はスムーズに入浴介助できたが、義父の時はなかなか難しかった。

 一晩に義父母と子供を入れると、本当に倒れそうになる。

義父母を一日交替で入れることもあった。

 

今のように遅くまで店をやっていなかったので、

毎晩夫が子供を風呂に入れてくれた。

夫が先に入って、体を洗い終わったところへ子供を入らせる。

皆が出てから友子さんが入った。

 

友子さん自身は湯につかるのではなく、ちょっと浴びる程度で、

のんびり入ったことなどない。

それでも気が張っていたのか、冬でも風邪をひくことはあまりなかった。

 

 

情けないこと

 

店は月に一度休みがあり、その日は必ず夫や子供たちと実家へ行った。

その時には、いつも必ずみんなで朝ごはんを済ませた後、

義父母の昼の食事を用意してから出かけ、午後2~3時ごろには帰ってきて、

夕方の商売をした。

 

義父母が痴呆になり始めた頃のことである。

その日も、いつものように義父母の昼ご飯を用意してでかけた。

帰ってくると、義弟が来ており

「親に昼飯も食わさんでどこへ行っちょったが」と言う。

びっくりして夫が義弟に事情を聞くと、

「昼飯を食べてない、腹が減ったって言うから、食堂から丼物をとってたべさせた」

と言うのだった。

 

自分の手で食べられるとはいっても、寝たきりのような人がいるのに、昼ご飯の用意もせずに出ていくわけがない。

その時初めて、

「ああ、これが義理の嫁と子舅の仲やなあ」と思った。

 

次からは、朝みんなで食べて片づけた後、用意した昼ご飯を食台におき、

かぶせた蠅帳の上に「昼の食事」と書いた包装紙を付けて行くことにした。

もし外の誰かが見ても、「お昼の食事を食べてないと言っているけど、昼後はを用意して行っているじゃないか」とわかるようにするためだ。

自分の気慰めからだが、それをし始めてからは一度も言われたことはない。

 

食事を用意せずに出かけるわけないのに、

義弟に食堂から出前をとって食べさせたと言われたのは、

「ほんとうにつらく、一番なさけないことだった。」

 

                   つづく

 

 

 

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【漁師の嫁ちか子さん】表彰と少しだけ夫婦のこと

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昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 【漁師の嫁ちか子さん】は3部作になっています👇から読んでください^^

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表彰

 

ちか子さんを模範嫁に推薦したのは、今はもう亡くなったが同じ地区の女性だった。

昭和49年、ちか子さんが38歳のときだった。

模範嫁の表彰の知らせを受けた時ちか子さんは

「まあ、こんなこともあるがやね」と思った。

この時、夫が何をいったか覚えていないが、

「よかったやか」と言ってくれたのではないかと思う。

 

「一応表彰されるがやったら表彰式にも行ったほうがええがやろうか」と思い

また、ちか子さんの住むD市の市役所にも

「表彰の謝辞を読んでくれ」と頼まれたこともあって、

当時5歳の末の子供を連れて表彰式に行った。

 

表彰式に行くとき義父に「おじいさん、表彰されたけん行ってくるけんね」

と声をかけたが、義父は何も言わなかったように記憶している。

反応も「行っておいで」といったものではなく

「しかたがない」というような感じだったようだ。

 

表彰式では市役所の人が書いてくれた謝辞を読んだ。

初めての経験に身体が震えてしまいどういう風に言ったかは覚えてない。

県知事と握手をして会食して帰った。日帰りだった。

 

表彰状と湯呑と急須の茶器セットをもらった。

表彰された時、老人洋上大学の旅行に招待してくれるという話を聞いたが、

介護が必要な年寄りを置いて参加することはできなかった。

 

今になってみると、その分に金一封でもと思うが

「なかなか、ねえ」と苦笑する。

「今やったら行けれるけどねえ」とちか子さんは笑う。

 

一緒に表彰を受けた人たちの中では、ちか子さんが一番若いほうだった。

表彰式にはみんなで写真を写したが、その写真もどこにあるかわからなくなっている。

表彰状は飾らなかった。巻いたままどこかに置いてある。

記念品としてもらった茶器セットのうち、湯呑はいまでも使っている。

 

表彰後、夫はそれについて何もいわなかった。

義兄弟には表彰されたことをいまだにはなしていない。

表彰式に行くときも、義兄弟には黙って行った。

夫も話してないのだろう。

表彰のことは新聞に載っていたが、それを読んでいるのかいないのか、

義兄弟からは何の言葉もなかった。

 

しかし、友人がお祝いをしてくれた。

「どこかへ食べにいこう」と言って連れて行ってくれた。

また保健婦さんも食事に連れて行ってくれた。

 

地元の正月

 

結婚した当初は、正月の時などに着物を着ていたが、今は着物をきることもない。

ちか子さんの住む町の正月は、雑煮にはイトヨリやビタといった赤い魚や水菜を入れて作る。

また、船には塩にをしたレンコ2匹の頭と頭を結わえて、なわしろに吊るして置いておく。

それを15日になったら塩抜きをして焼いてたべるのだ。

食べる頃には干したような感じでカラカラになっている。

辛い鮭のような感じだ。

「それが一番おいしいで」と言う。

 

夫婦旅行

 

この地域では、男の厄年の42歳になると夫婦で旅行に出かける。

同級生も皆行き、ちか子さんも夫が42歳の時夫婦で出かけた。

 

日和佐や金毘羅さんなどに行った。

初めての2人きりの旅行である。

また、平成7年頃には、長男の結婚式のためにC県に行った。

この時、義祖母も義父も既に亡くこれも二人きりの旅となった。

 

家業が漁業だから、旅行に行こうと思えば行けないこともない。

暇とお金があればの話だ。

しかし、よそが働いているときに休めば、魚を釣られてしまう。

結局なかなか出て行くことはできない。

漁業の婦人部での旅行には、30歳か40歳の頃2回ほど行った。

道後と宮島だった。

 

 

自分たちの介護

 

 

ちか子さんが義祖母や義父を介護していたころ、

介護は嫁の仕事というふうに思われていた。

つらくても、ちか子さんは子供のためと思い、泣きながらも耐えてきた。

今は子供がいても、別れて実家に帰る人がいる。

 

ちか子さんはそれではいけないと思うが、現状はそうなってきている。

自分たちに介護が必要になったときには、介護保険制度を利用してやっていかねばならない、と思っている。

 

ちか子さんの周りの人も、家族に痴呆のものがでると家では看られないと、

病院に入れている。

家で介護する、ということは滅多にないのだろうと思う。

そのため、ちか子さんはいざという時を考えて介護保険料も払っている。

娘たちには苦労させたくないし、介護してもらうことはできないだろうと思っている。

 

しかし本当のところは、自分の老後は家で看てもらい貰いたいと思う。

家で死にたい。病院では死にたくない。

それよりも、病院に行きたくない。

病院より家の方が慣れた場所だけに安心がある。

しかし、それはまた、なかなかできないだろうとも思っている。

 

夫とは2歳違いである。

5~6歳ほど年が離れていれば、もし今後夫に介護が必要になっても家で看てあげられるかもしれないが、2歳ちがいだと自分も一緒に弱ってくる。

出来る限りは家で看てあげたいと思っているが、無理がでればやはり病院に行くようになるかもしれない。

 

「それを考えると介護保険はありがい制度になるかもしれませんね」と言う。

しかし、介護保険料は高く、利用するにも金がかかる。

もう少し安くならなければ制度を利用しにくい。

働けなくなったら、払うものも払えなくなるかもしれない、という不安もある。

 

むかし、捕鯨船や鰹漁船に乗っていた人なら、厚生年金がもらえる。

その人たちの生活は比較的楽だ。

年間200万円もの年金を受け取っている。

だから、今沖へ行って何も釣らなくても暮らしていける。

しかし、ちか子さんたちは国民年金である。

受け取る額は本当に少ない。

 

釣った分で暮らしているのだ。

その中から介護保険料として2人分の6000円を取られることはとてもつらい。

しかもまた保険料が上がると聞いた。

 

病院に行っても医療費が高い。

借金もある。

古くなった船の部品修理にも、一つ数十万円とかかる。

どの費用も削ることはできないだけに、生活は大変である。

 

 

現在

 

 

自分でも苦労したなと思う。

結婚したことを「いまだに良かったとは思わんけど」と笑う。

10年働いて結婚して、慣れない漁師の家の生活、義祖母と義父の介護、

その後7年働いた。

本当に働きづめだった。

 

今はそんなには沖にでることはしない。

波があるし、年を取ったこともあって、無理はしない。

船も古くなったが、新しい船を作るには何千万円もの金がかかるためできない。

 

最近は日和もよくない、しかし、5時ごろ無線で組合から連絡が入ると

魚を揚げには行っている。

現在、夫も働くし、昼はテレビも見られる。

長女は独身でパーマ屋に勤めており、長男はC県にいる。

次女だけがこの町に住んでいる。

次女の夫は鰹漁船に乗る漁師だ。

 

血圧が高くなったり足が痛くなったりするので、身体が弱ってきたと感じている。

この状況に「ひとつもええとこがない」と言う。

しかし今なら、旅行にもいくらでも行ける。

身体が弱ってきているとはいえ、まだまさ元気だから、楽しみたいとも思っている。

 

                          漁師の嫁ちか子さん 完

 

【人生相談】不倫愛に溺れた夫、どうしたらいいのでしょうか?

新聞に出たスキャンダル

「美人歌手(43)との不倫愛に溺れた会社社長(73)」

不倫夫の妻(68)はわたしです。

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 こんどの相手は40代になってもまだまだ美しい有名な美人歌手。

それも新聞にまで出てしまって、恥ずかしい。

 恥ずかしいどころではなく68歳になって、こんな目にあうことが哀しい。

 

 夫73歳、妻68歳結婚して45年になります。

夫が美人歌手(43)と不倫していまして、

それも不倫愛に溺れているらしいのです。

1週間に一度焼肉デートしてマンションへ行っているらしい。

新聞の中刷り広告でしりました。

きっと本当でしょう。

 

もちろんいままでもいっぱい、

というかずーーーといろいろあったわけですが、

いままではゆるぎなく信じていたし愛していたし、

絶対にこの家庭を守りたかった。

 

それから私にも体力があったので、耐え忍とかいうこともできたのです。

 

年をとって、辛抱ができなくなってきたのです。

 

ふっと、もういいか、と思ってしまいました。

 

ほんとうにいろんなことがあったけど、すべてウヤムヤにやりすごしてきた。

そうすると、時が過ぎていつのまにか何事もなかったかのように時が過ぎていた。

 

近頃は前のように、夫のことが大好きでなくなってきた。

もしかしたら、ただの嘘つきなのではないかしらと思ってしまったり、

いつでも信じて尊敬してポジティブに行動してきたけど、

間違いだったかしら?

 

いままで我慢して努力してきたつもりだったけどすべて空手形、

何にもやり遂げてないような虚無感しかない。

 

永く生きたり、生活を共にしたりしたら、先にはご褒美があるだろうと

勝手に想像してたのだけど、間違いみたい、、、

 

夫は不倫愛に溺れて、

疲れたら「オイ!メシ!」と怒鳴りながら帰ってくるのだろうけど、

腹を立てることにも疲れ切った私はただ黙って、言われたとおりにご飯を作って、、、

 

私はいつだって夫のことをお殿様のようにせっしているのに、

夫は下僕に接するようにいつでも怒鳴ってる

「早よせんか!」「なにしゆうぜよ」と

お姫様のように接してもらいたかったけど・・・

 

年を取るという事は無くすものが多くなるという事なんだなぁー

ただただ悲しい。

 

夫に不倫愛された妻は別れてまた新しい人生をやり直したほうがいいでしょうか?

 

 

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【漁師の嫁ちか子さん】義祖母、義父の介護と若すぎる義母の死

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昔の結婚生活を伝えたくて…

2000年に「高知女性の会」のメンバーが、

「模範嫁」として高知県知事から表彰された218名のうちから

了解をいただけた12名の方のご自宅を訪問して

聞き取り調査を行った活動報告の小冊子から転載しています。

 

 ↓【漁師の嫁ちか子さん】は3部作です、こちらからお読みください👇

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 義祖母の介護

 

義祖母は、ほとんどおむつを使っていた。

ネルの寝間着や浴衣の古いものなどを破って作り、おむつにしていた。

おむつを替えるためにちか子さんは夜何度も起きなければならなかった。

ビチョビチョになっているときもあった。

そのため布団の上に、ナイロンと、その上に古い毛布などを敷いて使っていたが、そのナイロンや毛布なども何度も変えた。

 

義祖母に痴呆が始まると、自分でおむつを外してしまうようになった。

義祖母はトイレには自分で行くという。

少しずつ歩いていくが、どうしても漏れてしまい、落としながら行くことになる。

しかしそれを言うと怒りだした。トイレでも汚してしまう。

どこもかしこも拭いて回らなければならないことが、何度かあった。

 

そんな時義父は義祖母に「そんなことしちゃいかん」と怒っていたが、

義父が平成元年ごろから寝込み、痴呆が始まると、義父も同じことをした。

 

当時は行政などによる入浴サービスの制度はなかった。

体を拭いたり、歩くことはできたので、風呂まで行ってイスに座らせ、

体を洗ったりした。義祖母には床ずれができており痛々しかった。

 

家を建て直して何年かたった頃、義祖母が度々意識をうしなうようになった。

「こりゃ、いかん」と医者を呼び、寝付かせるとすぐ治った。

わからないような状態になることが再三あった。

 

また、こんなことがあった。

夜の12時ごろに実家の妹から「ちかちゃん、知っちゅうかえ」と電話があり、

聞くと「おばあさんが家の前に来て、ちか子、ちか子、よびゆうで」と言う。

 

その当時2階で寝ていたので、義祖母が出て行ったことに全く気が付かなかった。

「しらんでぇ、ほんならみてみる」と夫と見に行くと

杖を持った義祖母が実家の入り口の前に立っていた。

杖をつきながらやってきたのだろう。

それで、2人で義祖母を支えながら帰って来た。

知らないうちに義祖母が出て行ったのは、このときだけだった。

 

 普段の義祖母は長い距離を歩くことはできず、

外に出るころはあってもせいぜい家の前ぐらいで、

そんな時はずっとそばについていた。

だから、まさか鍵をかけている戸を開け、歩いて出ていくとは思っていなかった。

痴呆による徘徊だったのかもしれない。

普段は歩けなくても痴呆の状態では歩けたのは、不思議だと今でも思っている。

 

義母の死

 

最初、義祖母が入院し、義母が付き添いをしていた。

義祖母は「痛い、痛い」と言いつつもよくなったが、

今度は義母が心臓の病気で入院した。

妹がB市にいたため、泊まらせてもらったこともある。

 

しかしちか子さん夫婦は義母の死に目に会えなかった。

その日夫は病院に行っていたが義母の気分が良くなってきたということで、

家に帰った。

ところが、夫が帰るなり病状が急変して義母は62歳で亡くなった。

 

義父は頑固な人だったので、義母もいろいろ無理を重ねてきたのだろう。

また、8人の子供を産むことだけでも大変なのに、学校へ行かせて育てていくことは

どれほどの苦労があったかは計り知れない。

 

義母が倒れて亡くなってからは、ちか子さんが義祖母を看た。

義祖母が毎日「痛い、痛い」としきりに言うのを聞いて、とてもつらかった。

痛み止めもなく、揉んであげたりしながら

「どうしたら治るだろうか」と思っていた。

 

義祖母の死

 

昭和53年に義祖母を看取った。

結婚して夫の家に来た時、義祖母は既に「痛い、痛い」としきりに言っていた。

結婚当時82歳だった義祖母は、97歳の時に老衰で亡くなったが、

最後の方はトイレにも行けなくなっていた。

 

仕事

 

義母が早くに亡くなっていなければ、もう少し楽だっただろうと当時を振り返る。

実母は86歳で亡くなったが、義母もそのくらいまで生きてくれていたら、

子供をみてもらえたり、ご飯を作ってもらえたりもしただろう。

そうすればちか子さんも働きに行けただろう。

しかし、現実には働きになど行けなかった。

 

ちか子さんが働きにでたのは義祖母が亡くなった後だ。

長女が美容師の学校に行き始めたこともあって、

お金を作るために鰹節を作る会社に7年間勤めた。

その時は8時から5時まで働き、帰って来てすぐ義父のご飯を作った。

仕事が遅くなる時もあったが、そんな時は夕食が少し遅くなることも辛抱してもらった。

子供にお金がかかるし、かといって義父にそのお金を出してくれというわけにもいかない。それは理解してもらった。

 

 

義父の介護

 

義父は元気な人で、所有している小さな船に乗って餌を持ち、沖へ漁に出ていたが、

70歳の時に引退した。平成元年ごろだった。

 

義父は布団の上で倒れ、入院した。

ちか子さんは泊りがけで看病し、義兄弟も初めの頃は2日ほど泊まってくれたりした。

しかし義父が入院生活を嫌ったため、1カ月ほどで家に戻った。

そして再発し、4年間寝たきり生活となった。

 

義祖母と義父をほとんど一人で介護した。

「義兄弟ゆうてもやっぱりあてにならんもんね。くちばっかりで、いわれんけんど」

と笑う。

夫の兄弟のうち2人はA県にいるが、他の兄弟は高知県に住んでいる。

ただ,末の義妹は、義父をよく見に来てくれた。

 

「自分の言うことを聞いてくれんと思ったんかもしれん」と当時を振り返る。

しかし小柄なちか子さん一人では、義父の要求を全てこなすのは難しいことだった。

義父は亡くなるまで太り気味で、とても重かった。

抱きあげることなどとてもできなかった。

 

義父が寝込んだ時もおむつを使った。

最後の2年は紙おむつを使っていた。

夫や義兄弟は義祖母や義父のオムツを換えるときなどは、

抱きかかえるだけはしてくれた。

1人でおむつを換えなければならない時は、

まず義父を横に寄せ、おむつを敷いてから、義父を元の位置に戻す、

というふうにやっていた。

そうやって、何度もおむつを換えた。

夜中に何度も起こされるので、義父の近くで眠っていた。

 

1人では体の大きな義父を入浴させられないので、市の入浴サービスを利用し、

月に2回ほどきてもらった。

最後のほうになると、義父はどこかへ行きたかったのか、

歩けないのに這い進んで外へでたりしていた。

そんな時、夫と一緒に義父を家に連れ戻した。

 

夫は海が荒れない限り漁に出るため、日中はほとんど家にいなかった。

それは、ちか子さんにはとても切なくつらいことだった。

義祖母も義父も、ちか子さんが一人でかかえるには重かったので、

おむつを換えるときなどは手間がかかった。

 

義兄弟が帰って来た時には、抱きかかえてもらっておむつを換えたりもした。

実娘もA県から義父の介護を手伝いに帰ってきてくれたが、

実娘にも勤めがあり、帰らせたくないけど、仕方がない。

実娘がA県に帰る時が一番悲しく、泣いて別れたことが何度もあった。

 

義父はお酒を飲んだ時などは「この子はええ子や、ええ子や」とほめてくれもした。

倒れるまでは、ひどく怒ったり命令口調になったりということも、

あまりなかった。

「それやけん、私もおれたんやろう」と言う。

 

義母も義父母もそんなに怒ったりはしなかった。

しかし義父は倒れて寝たきりになると何かにつけ、よく怒るようになった。

時には杖で座布団をパンパン叩き、イライラや怒りをぶつけていた。

ちか子さん自身も杖で叩かれたことがある。

 

義父はちか子さんが外にいて自分の声が聞こえなかった時や、

またおむつを換えるときなどに怒ったりしていた。

義父が怒った時期は亡くなる少し前が一番多かった。

しかし、義父が亡くなる時「すまなかった」と言ってくれたに違いないと、

ちか子さんは思っている。

 

義父が亡くなってから8年になるが、今でも当時の様々なつらさを思い出すと、涙が出てくる。                       つづく

メモだって奥が深いのだ「すごいメモ。」小西利行著

やはり何をするにしても、教科書はいるわけでして

ノートをとる、

メモをとる、

という一見なにげなく続けている行為も

考えてみると、メモの効率的な、有効な方法があるのではないか、

と思い、この本を読んでみました。

 

 

 

 

読んでみてメモに対する認識が変わりました。

 

まず、メモがあって、その先に整理、設定、考察、発見、指示とかに

つながるわけだから、

メモを取る時点から先をみこして

 

ちゃんとメモをとる!

 

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仕事のスピード・質が劇的に上がる すごいメモ。

仕事のスピード・質が劇的に上がる すごいメモ。

 

 

 

メモは生鮮食品といっしょで、時間がたつと腐る!

だから、

野菜を買ってきたら下ごしらえをして

使いやすく処理しておく

下味をつけてすぐに使えるようなにする

 

☆メモをとるということは、聞いたことをただ書き残しておくというだけではなく、

未来に直ぐにつかえるように下処理または新しい形にして保管する。

 

なにげなくとっていたメモも見方を変えると

大きな意味があるなぁ、って考えされられた。

 

そもそも、メモに興味をもったのは、

日記帳でもなく、スケジュール帳でもなく、タスク管理とかではなく、

なんとなく、ふっと思ったこととか、気になったこととか、

気楽に ノートに書きたいなと・・・

 

ノート買うのも楽しいし、文房具めぐりも面白い🎵

きっかけは一冊の本

 👇

chizukoike.hatenablog.com

 

ノートに色をつけたり、記号Ω♬🌊★🌷をつけたり、

矢印👇→⇒☝をつけたりすると、

見やすくて、判りやすくて、後で見返しても楽しいことに気が付いた😊

 

 

メモはそのまま放置したら魚や野菜といっしょで、

腐って使い物にならないまま捨てられる運命となる。

そうならないためには

 

未来に必要なときにいつでもすぐ取り出せて料理できるように、

 

メモの下ごしらえの三つの方法

 

❶ まとメモ・・・・・情報を処理する、まとめる。

聞いたこと、見たことを頭の中で整理して分かりやすくバラス

(野菜で言うと、皮をむいたりしっぽをきりおとしたりしていらない部分を捨てながら、切れ目を入れておくとか、たれに漬けこんでおくとかの下処理をしておく)

また、メモは時間がたつと忘れるので、

「こう考えてね」「ここを解決してね」という調理法を残しておくという考え方。

 

A、大事なところに三つまで〇を付けて分かりやすくする。

 

B、←矢印⇒でつなぎ合わせた流れからa、b、cと三つのまとまりを作ると、読む順番や論理が視覚的に整理される。

 

C、記号をつける、例えばVS(相対)?(疑問)★(重要)◎(良い)⇔(対比)

 

D、吹き出しをつけてコメントを入れて、未来の自分へ指示を出しておく。

 

❷ つくメモ・・・・・アイデアがザクザク、素材と素材を合わせて新しいものを作る

 

A、ルールがあると人は考えやすくなる、目的を明示してハードルを作り「思考のルール化」でハードルをこえるきっかけを作るメモ。

「それはほんとうに〇〇を✖✖するか?」という課題と目標を明確にする言葉。

 

B、目標のビジュアル化、まんがメモ、感情に目から訴える

 

C、三角を重ね合わせて対比させるメモ、不満から隠れニーズを探すブラック三角メモ、好みから隠れニーズを探すホワイト三角メモ

 

D、メモとメモをつなぐ、◇⇔◇ ̻☑→☑→☑

 

E、原因から結果だけでなく、結果からアマノジャクに結果を予想する

 

 

つたメモ・・・・・大切なことが一瞬で伝わる意志疎通、伝わるためのメモの方法。

 

A、『見出し』をつける、場所、理由、人、モノ、行為、を組み合わせて13文字で

 

B、大小の図メモ□̻☒̻🔲、関係しているモノコトを建物のイメージにして並べる、

ドラマの人物相関図みたく関係を点線でつなげて関係図をつくる

 

補足:

・論点とは問題意識である、双方の興味が交叉する論点を用意する

旅(テーマ)→☑老人の一人旅は無謀か?

グルメ(テーマ)→☑高知でうまいのはラーメンかうどんか?

結婚(テーマ)→夫婦は何でどうやって、いつまでつながっているのか?

 

・文章を書くコツ⇒結論を決めて証拠を集めるだけで文章は書ける。

・文章の書き方⇒はじめに・本文・結論だけで文章は書ける。

 

毎日ノートにメモをとって頭を整理してブログを書こう!

 

 

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